マタイ
今日で、今回のマタイの福音書のディボーションは終わりです。 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。…
ある人々は「十字架に架かった無力な人間を神として信じることなどできない」と語ります。「イエスは敗北者ではないか」と言うのです。そして、その無力と敗北の頂点はこのことばだと言うのです。
「証拠を見せろ!そうすれば信じてやろう!」と仰る方が多くおられます。科学が発展した現代に限らず、イエス様の時代にもそのような人々が多くいました。
イエス様の受難のクライマックスは、人間の罪の頂点でもあります。 すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:25)
ペテロはイエス様のことが気になって、完全に逃げ去ることもできずにこっそり後をついて行きます。しかし、彼の顔はすでにある程度知られていたようです。ですから、彼を見つけた人々から「あなたもイエスといっしょにいた」と指摘を受け、大慌てでそれを打…
「先生、お元気で」*1とはなんと白々しい…。イエス様を売り渡すための合図は「口づけ」でした。その忌むべき裏切り者に対して、イエス様は「この恩知らずめ!」と怒鳴るのではなく、「*2友よ…」と呼びかけます。 寝食を共にし、師として、友として、深い愛を…
今日は「最後の晩餐」「ペテロ離反の予告」「ゲツセマネの園の祈り」の記録です。 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り…
いよいよ、イエス様の「受難」についての箇所が始まります。イエス様は、出エジプトの出来事の際にほふられた小羊のように*1血を流し、神の怒りと裁きが私たちを“過ぎ越し”ていくようにしてくださったのです。 *1:出エジプト記12章参照
今日の箇所も、イエス様の語られる終末論が続きます。
イエス様は、マタイ24章の後半から25章にかけていくつかのたとえ話を語っておられます。 「泥棒に用心すること」「留守にした主人としもべ」「花婿を出迎える手伝いの娘たち」のたとえですが、これらの話は次の二つの聖書箇所に挟まれています。
弟子たちは神殿の建物に目をみはっていました。この神殿は、建築の天才であったヘロデ大王によって増改築された壮麗な建築物でした。しかし、イエス様はこう語られました。 「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。…
22章1-14節には、「王子の結婚披露宴」のたとえが記されています。「最初に招待された客」とは、イスラエルの民のことです。しかし、彼らは王子であるイエス様を拒み、王である父なる神様を拒みました。殺されたしもべたちは、旧約時代からバプテスマのヨハ…
マタイの福音書21章以降、イエス様の十字架直前の最後の一週間についての箇所が始まります。
マタイ18章には、罪を犯した兄弟(姉妹)に対してどのような態度を取るべきかが示されています。聖書の「人間関係学」「コミュニケーション学」です。
13章に出て来る「天の御国のたとえ」ですが、これはいわゆる「天国」や「私たちの心」について教えているのではありません。
12章は「ユダヤ人指導者が公にイエス様を拒絶する」という箇所です。「たら・れば」の話しになってしまいますが、もし、彼らがイエス様を拒絶せずに受け入れていれば、旧約聖書時代に彼らがずーーーーーーっっと待ち望んでいた「メシアが統治する王国(御国…
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)はとても有名な聖書箇所ですね。
パリサイ人たちは「罪人」と一緒に食事をするイエス様を非難しました。イエス様に直接言うのははばかられたのか、弟子たちに文句を言った訳ですが…。
山上の説教を理解する上で大きな鍵となる聖句はこれです。 「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。」(マタイ5:20)