ヨハネ
十字架から三日目の日曜日、主イエスは復活されました。墓は空っぽで、遺体をくるんでいた亜麻布と頭に巻かれていた布だけが残されていました。復活の主はマグダラのマリヤに現れ、その後、弟子たちの前に姿をお見せになります。
いばらの冠を被らされた主イエスに向かって、人々は「十字架につけろ」と叫びました。祭司長や役人たちがその中心におり、そこでは買収、扇動が行われていたことでしょう。踊らされる方も、踊る方も、いずれにせよ、自分では決して償うことのできない罪を犯…
この箇所には、たくさんの「わたしたち」が登場します。
いよいよ十字架を前にして、イエス様は特に弟子たちのために祈りを捧げられます。それが17章全体に記録されています。
主イエスは「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」と言われました。これは一体何のことを語っておられるのでしょう。
前章から少しの時を経て、いよいよ十字架が近づいてきます。この箇所は、いわゆる「受難週」に入る直前にベタニヤ村のある家で起こった出来事を取り上げるところから始まります。
エルサレム郊外のベタニヤ村にいるマリヤ、マルタ、ラザロの三人姉弟は、主イエスと懇意にしていました。しかし、ラザロが重い病になり、瀕死の状態になりました。主イエスは、歩いて数日かかる場所におられました。
「まことに、まことに」(原語ではアーメン、アーメン)とは、主イエスが重要な内容をお話しになるときの合言葉のようなものです。
生まれつきの盲人の癒しの記事ですが、ここにはいくつかの重要な霊的なテーマが含まれています。
世の光である主イエスは、この箇所で非常に内容の濃い、長い説教を語っておられます。特に扱っておられるテーマは「人間の罪という闇」(21-40節)、「悪魔という闇」(41-50節)、「死という闇」(51-59節)です。
有名な「姦淫の女」の箇所です*1。律法学者、パリサイ人らが、姦淫の罪によって“現行犯逮捕”された一人の女性を連れてきます。 *1:この箇所(括弧でくくられている)は、多くの写本においてヨハネ福音書の一部として伝えられてきたが、写本研究(本文批評)…
主イエスは宮で人々を教えているとき、大声でこう言われました。
久々の更新です。冬休みを経て、その後、ビジョンリトリートのためにある場所にこもり、じっくりと祈りと黙想の時をもって帰ってきました。さて、ヨハネのディボーションですが、この7章は、主イエスが十字架に架けられる約半年前の秋に行われた「仮庵の祭り…
2章の後半にはこのようなことが記されています。 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。 (2:23)
これは主イエスの行われた最初の奇跡であり、主イエスが来られたことによって新しい時代が始まったことを告げる重要な意味を持っています。 ※ 写真は「カナの婚礼教会」に向かう通り。
バプテスマのヨハネの弟子であった二人は、主イエスの弟子となります。これは「師匠を乗り換えた」とも見えますが、ヨハネはそのことに不満や文句を言いません。
バプテスマのヨハネは、メシヤの道備えをするために神から遣わされた人物です。彼は人々の霊的関心を刺激しました。しかし、彼は人々の注目が自分に向くことを拒み、それを主イエスご自身へと向けました。
あけましておめでとうございます。みなさん、神様、今年もよろしくお願いします。さてさて、これから読み始めるヨハネの福音書1章は、新年にとてもふさわしい箇所ですね。さあ、味わってみましょう。