道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ18章

マタイ18章には、罪を犯した兄弟(姉妹)に対してどのような態度を取るべきかが示されています。聖書の「人間関係学」「コミュニケーション学」です。

 

まずは、①1対1で罪を指摘し、謝罪があれば和解する。それでも聞かない場合は、②1-2人と共に行き、罪を指摘する。そして、謝罪があれば赦し、和解をする。

 

この①②ステップを怠って「◯◯さんったら、ヒドイのよー」「□□□なんて、ホント最低なヤツだぜ」と噂話をすることは、仮に相手に非があって自分に正当性があったとしても、聖書的な態度とは言えません。

 

①②のステップを踏んだ上で、どうしても問題が解決しない場合は、③教会(のリーダーたち)に相談することをし、相手がリーダーの勧めに応じて罪を認めて謝罪するなら和解をします。それでもダメな場合は、④教会の交わりからその人を断ちます。

 

罪が明白なのにそれを認めない人を妥協的に受け入れ続けることは、聖書的な態度ではありません。しかし、これらすべてのプロセスは、愛に基づいてなされるべきですし、相手の回復を願う祈りを伴ってなされるべきです。

 

だから、交わりを断ちながらも、「悔い改めて謝罪をして来たなら、いつでも赦して受け入れる」という心の準備が必要なのです。


ウィリアム・マクドナルドという聖書注解者は「罪を指摘することと赦しの関係」「正しい実践のプロセス」について次のように語っています。


①兄弟が私を不当に扱ったり、私に対して罪を犯したりした場合、私は心の中ですぐに彼を赦すべきである(エペソ4:32)。それによって、激しい憎悪や赦せない思いから解放され、冷静に相手の責任を問うことができる。

 

②心の中ではすでに相手を赦しているが、そのことをまだ相手に告げていない。公に彼が赦されるのは、彼が悔い改めてからでなければいけないだろう。したがって、私には、彼のところに行き、(彼が罪を認めてくれることを期待しつつ)愛をもって彼を戒める義務がある(ルカ17:3)。


③彼が自分の罪を認めて謝れば、すぐに、彼を赦したことを告げる(ルカ17:4)。