道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ディボーション:マタイ21章

マタイの福音書21章以降、イエス様の十字架直前の最後の一週間についての箇所が始まります。

 

主イエスがろばに乗ってエルサレムに入られた時、民衆は「ダビデの子」「メシア」つまり「王」としての歓迎をします。確かにイエス様は「王の王(King of kings)」ですが、王座に着座される前に為すべきことがありました。


それは、私たちの罪を身代わりに引き受けて「神の小羊」として苦難、すなわち十字架の死を味わわれるということです。


日曜日がこの「エルサレム入城」、月曜日には神殿で詐欺同然の商売をしていた人々を追い出す「宮清め」、火曜日には「イチジク事件」「律法学者との論争」を経て、主イエスは一歩一歩、十字架へと向かわれます。これは預言者たちを通して先に告げられたことであり、神様のご計画でした。


当時のユダヤ人指導者たちは、自分たちの経歴や所属派閥を誇り、主イエスに対して「あなたは何の権威でデカイ顔をしているんだ。権威があるのは俺たちだぞっ!」とヤクザまがいの恫喝をします。


しかし、彼らこそ「葉っぱだけで実のないイチジク」(外見だけで中身の伴わない)のような状態であることを主イエスは見抜き、それを示されます。


私たちは時に、肉体的にも、社会的にも、精神的にも、霊的にも弱さを覚え、いろいろと失敗をし、空回りをし、自身の不甲斐なさにうなだれることもあります。しかし、そのような弱さの中で私たちが真に主イエスを見上げ、このお方を心と生活のただ中にお迎えするなら、このお方の権威(力)が私たちの内で働き、内側から外側へ(Inside-Out)と力が流れ出し、実が結ばれます。


自分の権威を誇ってイエス様を退けるか、それとも弱さを認めてキリストの権威をお迎えするか…。ホサナ(今、私たち救ってください)」と、私たちの人生に主イエスを歓迎しながら歩みたいと思います。
 

21章33-46節には「ぶどう園の主人と農夫」に関するたとえが記されています。ぶどう園の主人は、造り、巡らし、掘り、建て、貸して…と書かれています。これは、神ご自身が、ご自分の民に対してどれほど丁寧に「お膳立て」をしてくださっているかを示しています。
 

しかし、その良い主人を持った農夫たちは、しもべたちをつかまえ、袋だたきにし、殺し、石で打ち、追い出して殺しました。最終的に、主人は「息子」を遣わします。これはもちろん、神の独り子でありメシアであるイエス様を指していますが、結局、ユダヤ人の指導者たちはこのメシアを受け入れず、拒絶します。しかし、神様には深いご計画があり、イエス様はそれをこのように説明されました。

 

「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」(マタイ21:42)

 

 

 

ユダヤの指導者たちが捨てた石(イエス様)が、実は、私たちの寄って立つ救い岩です。それだけではなく、イエス様は、教会の礎石(エペソ2:20)でもあり、やがて訪れる神の国に存在するエルサレム神殿の礎石でもあられます。ちなみに、これはおなじみのエゼエル47章とも大いに関係があります。

 

人間の頑さ、愚かさ、罪深さ…それらは忌むべきものですが、しかし、神様は私たちの目には不思議と思える方法で、人間の闇の部分さえも用いてご自身の計画を進めてくださるのです。