道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ディボーション:マタイ22-23章

 22章1-14節には、「王子の結婚披露宴」のたとえが記されています。「最初に招待された客」とは、イスラエルの民のことです。しかし、彼らは王子であるイエス様を拒み、王である父なる神様を拒みました。殺されたしもべたちは、旧約時代からバプテスマのヨハネに至るまでの「預言者」たちを指していることでしょう。

  「王は怒って、兵隊を出して…彼らの町を焼き払った」(7)とある通り、実際、エルサレムの都を中心とするイスラエルの国は紀元70年代にローマとの戦争に敗れてしまいます。そして、大通りにいる「最初は招かれていなかった客」が宴会に招き入れられるのです。これが私たち異邦人です。異邦人がこの宴会に入る条件は、招きを拒まないこと、礼服を着ることだけです。

 

 12-13節を見ると、礼服を着ていなかった人がどのような扱いを受けるかがかかれています。その扱いは酷なように見えます。しかし、イスラエルにおいて身分の高い人が宴会を催す場合、主人が礼服を用意して宴会の入り口に用意していたそうです。この「礼服」は、私たちの良い行いや信心深さを示しているのではなく、私たちに着せられるイエス・キリストという「義の衣」を指し示しています(ローマ3:20-28など参照)。

 

 この恵みをさえ拒んでしまうなら、残念ながらそこには救いの道がないということになります。神が酷いのではなく、もったいないほどの恵みを平気で拒む人間の頑さの方がよっぽど酷いのです。

 

 それにしても、イエス様の死、葬り、復活が自分自身のためであったと心から信じる者は、この「礼服」「義の衣」を着せら、神の目に罪の無い正しい者として見られています。ハレルヤ!

 

 それから、「カイザルへの税金問答」(22:15-22)が出て来ます。質問してきた者たちは、イエス様が「ローマに税金を払うな!!」と言ったらローマへの反逆罪に問い、「払え!!」と言ったらイスラエルの神への不信仰を問うつもりでした。

 

 ここで、イエス様は、有名な「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に…」(22:21)という教えをなさいます。これは、信仰と社会生活を分離しなさいという教えではありません。

 

 私たちの持っているすべてが「神のもの」ですから、すべてのものを神のために使い、神の栄光のために捧げるのが基本です。しかし、それは税金を納めないとか、全財産を献金するとかそういうことではありません。国家に税金を納めるときも、家族や自分のために買い物をするときも、すべてにおいて「神に仕える態度」「神の栄光のためという考え」をもってお金を使うということです。

 

 この後もイエス様は、ご自身を罠にかけようとする者たちの「イジワル問題」「ひっかけ問題」に絶妙な形で答えておられます。しかし、どんなにイエス様が知恵に満ちた答えをなさっても、彼らはイエス様を受け入れようとはしないのです。なんと悲しいことでしょうか。次のみことばから、イエス様の愛と悲しみが胸に迫って来ます。

 

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23:37)

 

 

 24章以降は、オリブ山の説教と呼ばれる「終末論」に関する教えが始まります。これも大事な内容なので、追って解説したいと思います。