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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ27章15-44節

 

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イエス様の受難のクライマックスは、人間の罪の頂点でもあります。

 

すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:25)

 

罪に捉えられた人間は神を恐れずに、「どんなに報いを受けても構わない」「地獄があるなら、地獄にだって行ってやろうじゃないか」などと言います。なんという不遜な態度でしょうか。

 

この民衆は自らのことばによって自分たちと子孫に大きな災いを招きました。メシアを拒絶したことによって、イスラエル民族は長きに渡る苦難の道を歩むことになってしまいました。*1

 

そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。(マタイ27:38 )


イエス様は、人々の罪を背負って死ぬ救い主のようには「見え」ませんでした。むしろ、単なる犯罪者たちの一人として処刑されたのです。これは預言の成就でした。

 

「…彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ53:12)


私たちは、誰かと「同罪」にされることを好みません。「あんな人と一緒にしないでくれ!」と腹を立てます。濡れ衣を着せられることなど耐えられません。それどころか、自分に非があるのに人になすり付けようとしてしまいます。

しかし、イエス様は、私たちを救うため、罪人の一人として数えられることを選ばれました。そこに愛があります。そこに、私たちの救い主の偉大さと栄光があります。このお方と出会い、このお方を救い主として信じ、主と告白して従って歩めることはなんという誇りでしょうか。

※写真は、ゴルゴタの丘跡に立つ「聖墳墓教会」

*1:ユダヤ人迫害を肯定することは決してできません。迫害した人々は、彼ら自身でその蒔いた種を刈り取る事になります。しかし、聖書はユダヤ民族自身が自らに苦難を招いたこともはっきりと語っています。