道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ27章15-44節(番外編)

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「証拠を見せろ!そうすれば信じてやろう!」と仰る方が多くおられます。科学が発展した現代に限らず、イエス様の時代にもそのような人々が多くいました。

 

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。(27:39-42)

 

このように仰る方々が、皆さんの周りにもいらっしゃるのではないでしょうか。「証拠を見せろ!見ないと信じないぞ!」と仰る方々に対して、どのように自分の信仰を説明しようかと悩んだ経験をお持ちではないですか。うまく説明できずに敗北感を味わったこともあるかも知れませんね。ディボーションガイド「番外編」として解説をしておきます。


果たして「証拠を見せろ!」と仰る方は、証拠を見たら本当に信じるのでしょうか。おそらくそうではないと思います。そして、これは非常に重要な事ですが、そのように言う人々も実際には、無自覚のうちに「証拠のないこと」「証明できないこと」を信じて生きています。

 

たとえば身近なことで言うと「人間の命の尊さ」は証明できません。「私たちの食べる牛や鶏よりも人間の命が大切だ」ということも証明できるでしょうか。「他人よりも家族の方が大切だ」というのも証明できることではありません。でも、深く考えることもなく、それらのことを認めていきているのです。


実は、人間の知性や理解力ではっきりと把握できないものは認めないという「懐疑主義」*1の立場は、結局、「確かなものは何も無い」という考えに行き着いてしまいます。これは、少し難しく言うと「不可知論」という考え方です。しかし、厳密に「不可知論」に立って生きようとすると、何一つ確かな事が無いわけですから、どう生きていって良いか全く分からないという状態になります。


それでは困るので、彼らは「証拠がないと絶対に信じない!」と主張しながらも、結局のところ実は「証拠が無くてもなんとなく認めて生きる」「自分の直感や好みに頼る」という矛盾した生き方をしてしまっているのです。これでは、主張と生き方が首尾一貫していません。*2


もし、議論をふっかけられるようなことがあったら、私たちが相手の方と同じ土俵に乗る必要はありません。一所懸命、自分の信仰の正しさを説明しようとしたり、まして証明しようとしたりする必要は無いのです。

むしろ、相手の方に敬意を示しながら「どんなことについても証拠がなければならないということでしょうか?」「証拠が無いと本当に何も信じないという生き方は、実際には難しくありませんか?」と尋ねて見るのが良いでしょう。

 

上にも記したように「懐疑主義」は、突き詰めるといつの間にか逆に「知性から離れていく」という結果を招き、結局は、直感、山勘、霊感に頼って生きていいくという頓珍漢な状態に陥ってしまいます。このことに自ら気づいていただくよう「問いかけ」をすることが、私たちに求められているアプローチです。相手の方が「あれ? 俺は多くのことを証拠無しに認めて生きているんじゃないか?」と、現実に気づいてくれれば有り難いことです。

 

聖書を信頼するクリスチャンは「懐疑主義」「理性万能主義」「科学万能主義」の立場を取りません。それらは「万能」ではありません。限界があります。しかし、クリスチャンは、これらの能力の素晴らしさを認めます。そして、これらのものを真の意味で有効に用いるためには、これらのものを与えてくださった神を信頼し、神の導きに従う必要があると信じます。 

 

そして、神を信頼し、導きに従う具体的な方法は、思い切って「聖書を信頼する」ことです。聖書を前提にし、聖書に基づいてすべての事柄を判断していく道が、私たちの選ぶ道です。これは一見、無謀のように見えるかも知れません。「聖書が信頼できるという前提はどうやって証明するのだ?」と、懐疑主義者は言うでしょう。

 

しかし、「人格的な神がおられ、その神が聖書において私たちに真理を啓示しておられる」ということを前提にして物事を見、考え、生きていくとき、私たちは不思議な「調和」「首尾一貫」を経験します。それは、あたかも「前提」の正しさを裏打ちしているかのようです。

 

そして、私たちは「この作業」において、大いに知性を用います*3。何も考えずに鵜呑みにするのではなく、よくよく学び、正しい理解に努め、その上で聖書的真理を生活に適用するのです。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。(詩篇19:7-8)*4


いずれにせよ、 私たちはことのことを忘れてはなりません。「無神論」とは戦いますが、「無神論者」を愛します。「むなしい、だましごとの哲学」*5と戦いますが、それらの虜になっている人々を愛し、彼らに敬意を示しつつ、真理を証しすることにチャレンジしていくのです。

*1:近代哲学の父と呼ばれるデカルトは、全てを疑っていくならば「我思う故に我あり」(Cogito ergo sum)というところにまで行き着く事を教えたと言われています。この世界が実在する事も、自分自身が実在することさえも疑い得る。しかし、「自分は存在しているのだろうかと“疑っている自分”がいるということだけは疑い得ない」という内容です。

*2:ムキになって議論をふっかけてくる方は、心の奥底で「自分自身の抱えている矛盾」というものに不安を抱えている場合が多いのです。

*3:これについては、使徒の働きに記録されているベレヤの信徒たちの姿がモデルです。「ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)

*4:「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」はみな「聖書のみことば」を示しています。これらのことばの替わりに「私は頭脳」「私の知性」を入れてこの箇所を読んでみましょう。私たちはそれに対して到底、アーメンとは言えません。

*5:コロサイ2:8