道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マタイ27章45-66節

 

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ある人々は「十字架に架かった無力な人間を神として信じることなどできない」と語ります。「イエスは敗北者ではないか」と言うのです。そして、その無力と敗北の頂点はこのことばだと言うのです。

 

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)

 

しかし、私たちはむしろ、イエス様がこの叫びをなさったことによって、私たちに救いがもたらされたことを確信します。この叫びはイエス様の敗北宣言ではなく、むしろ、勝利のためにどうしても必要な叫びだったのです。

 

父とひとつである御子は、いつも天に向かって「アバ(父ちゃん)」と祈っておられました。それなのに、ここではまるで「子」であることを忘れてしまったかのように「神よ、お見捨てになったのですか」と問いかけておられます。イエス様は十字架の上で、本来私たちが味わうべき神の正義の怒りを味わい尽くしてくださっているのです。

 

イギリスの伝道者、ウィリアム・ブースは世界有数の人道援助団体の一つとしても知られる「救世軍(Salvation Army)」の創設者ですが、彼は、このようなことばを残しています。「彼らは主が十字架から降りて来たら信じると言ったが、私たちは主が十字架にとどまってくださったゆえに信じるのである」

 

十字架の死と同時に不思議な出来事が幾つか続けざまに起こりました。

 

すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(27:51)


神殿の幕は、神の臨在がある「至聖所」と聖所とを隔てるための分厚い大きな布でした。その幕がイエス様の十字架の死と同時に突然裂けたという事実は、私たちと神様との間の隔てが取り除かれ、私たちが「アバ」と呼びかけることのできる新しい時代がやって来たことを示しています。御子イエス様が私たちの身代わりに見捨てられたことによって、私たちが神の子とされたのです。

 

…この方(キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ1:12)

 

さらにこのような出来事が記録されています。

 

また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(52-53)


これは理解するのが難しい箇所ですが、ここで起こった出来事は、永遠に朽ちない身体をいただく「復活」とは区別されるべきでしょう。この人々は、あのラザロ*1のように蘇生を経験した人たちなのかもしれません。彼らはそのまま永遠に生きたのではなく、やがて地上での生涯を一度終えたことでしょう。いずれにせよ、この出来事はイエス様の十字架と復活が「死に対する勝利」であることを指し示しています。

 

…神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント15:57-78)

 

イエス様の十字架によって神の子とされ、死に勝利する存在とされたことに感謝しつつ、今日を歩みたいと思います。

 

※写真は、エルサレムにある「園の墓」内部

*1:ヨハネの福音書11章参照