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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ディボーション:マタイ28章1-20節

マタイ

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今日で、今回のマタイの福音書のディボーションは終わりです。

 

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(28:18-20)

 

このイエス様の命令は「権威」ある命令であり、世の終わりまで私たちクリスチャン(教会)が真剣に従うべきものです。さて、多くのクリスチャンたちは、この命令の中心が宣教・伝道であると理解し、通常これを「大宣教命令」と呼びます。そして、キリスト教界の中では「もっと伝道しよう」「海外に宣教師を送ろう」という号令がかけられてきました。ところが、現在、日本では教会そのものの弱体化、衰退が叫ばれています。

実は、この命令における中心的な動詞は「弟子としなさい」です*1

ですから、この命令は「宣教命令」ではなく「弟子づくり命令」*2と呼ばれるのがより相応しい内容です。


この「弟子としなさい」という動詞を説明するために三つのことばが用いられています。それは「行きなさい」「バプテスマを授けなさい」「教えなさい」です。

 

つまり、第一に、イエス様を知らない方々の近くまで行って、彼らに福音を分かち合うことが勧められています。クリスチャン(教会)は常に「外向き」な姿勢を持ち、まだイエス様を知らない多くの人々に対して関心を持ち、祈り、キリストを証しする情熱をもって関わる必要があります*3


第二に、三位一体の御名によってバプテスマを授けるということです。原語を見ると、ここでの「御名」ということばはここで単数形で記されています。ここから、父・子・御霊が一体であられることが分かります。また、バプテスマが単なる個人的出来事ではなく、三位一体の神の交わりの中に加えられる出来事である事を示しています。バプテスマは教会の交わりへの加入でもあり、単に個人的なものではありません。イエス様は、私たちに対して単に「教会に行く」ことではなく、「教会そのものとなる」「教会という共同体(家族)を築く」ことを命じておられるのです。


第三に、「命じられたすべてのことを守るように教えなさい」と勧められています。イエス様の教え、聖書の真理を「教えること」「教えられること(学ぶこと)」は、あってもなくてもどちらでも良いものでは決してありません。クリスチャンとしての学びや訓練は、特別なエリートクリスチャンのためのものではないのです。みことばの学びが衰えるならば、クリスチャン生活も教会も衰えます*4。と同時に忘れてならないのは、教えることや学ぶことが「最終目的」なのではないということです。イエス様は「すべてのことを守るように」と語られました。私たちがみことばに「生きること」が目的であり、それによって神の栄光が現されることが最終目的です。


宣教は、教会が「みことばに生きる弟子の群」となる時に推進されていく働きです。健全な弟子づくり、弟子訓練によって、教会が建て上げられることによって、神のご計画は成し遂げられるのです。

 

私たちがどんなに不器用でも、失敗が多くても、迷ったり悩んだりすることがあっても、それでもあきらめずにこの命令に従っていこうとするなら、イエス様の「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」という約束が私たちの上に成就します。


※写真は、イエス様がこの命令を語った場所とも言われる「アルベル山」

 

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閉塞感からの脱却―日本宣教神学

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*1:英語では"make disciples”, ギリシア語の”マセートゥオー”

*2:「弟子訓練」を標榜するクリスチャンの団体・教会においても、残念ながら不祥事やカルト化の事例が報告されている。これは非常に残念なことであり、絶対に避けなければならないことである。しかし、これらの事例をもって、イエス様の「弟子づくり命令」「弟子訓練命令」までをも否定してはならない。様々な問題は、聖書からの逸脱によって生じている。謙遜に聖書に聞き続けながら、あくまで聖書に忠実な弟子訓練を行うことが求められているのである。

*3:「外部の人に対して賢明にふるまい、機会を十分に生かして用いなさい。」(コロサイ4:5)

*4:多くの教会で聖書の学びがふるわず、ほとんど参加者もいないという話を聞く。その背景には、聖書の権威について非常に“ゆるやか”に考える傾向というものがあるだろう。私たちは、以下の指摘に耳を傾ける必要がある。「聖書の権威が失われるどうなるのか。信仰生活の規範的原理が失われ牧師も信徒も信じていない説教を語り、聞くことになる。聖書の語ることに誰も耳を傾けなくなる。行動原理はみことばではなく、人間の理性であり、自分である。みことばは私たちの思想と行動を何ら規制し、指導しない。心の中心に神に代わり自分が居座ることになる。信仰生活の基準は聖書ではなく、この世の常識となる。おおよそ神を畏れるということがなくなる。これは聖書が繰り返し断罪している偶像崇拝の罪である。」(『閉塞感からの脱却ー日本宣教神学ー』山口勝政著)