道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記2章

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 1章で、ハンナはこのように祈りました。

 

「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(1:11)

 

 子どもがせっかく与えられても、その子を神に捧げてしまう…。普通の感覚で考えると全く不可解ですが、しかし、彼女は男の子を与えられた時、実際に誓い通りの行動をとりました。ハンナにとって苦しい、思い通りにならない不妊の期間を通して、彼女は「わたしは主のはしため」「おささげします」という心を持つ信仰者へと変えられていたのでしょう。

 

苦難の中で私たちはひねくれ、神から離れることもできます。しかし、意味も分からない試練の中で、神を求め、神自身を深く知り、愛し仕える人へと成長していくこともできるのです。


2章には「ハンナの賛歌」としても知られる祈り、賛美の歌が記されています。

 

ハンナは祈って言った。「私の心は主を誇り、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。…」(2:1-2)

 

ハンナは子どもを産んだ自分を誇るのではなく「主」を誇っています。ここでの「角」は、力の象徴です。彼女の力は「主」から来ています。そして、主の与えてくださった救いを喜び、主の聖さ、主ご自身の卓逸性と堅固さを賛美しています。私たちも祈る時、このように賛美を捧げる者でありたいと思います。もちろん願い事の祈りも大いに良いし、起こった幸いな出来事を感謝するのも素晴らしい…。でも、主ご自身のご性質をほめたたえ、主自身の存在を誇りに思い、それを告白する祈りを捧げることを大切にしていきましょう。

 

さらに、ハンナの祈りは賛美の祈りであると同時に、正直な祈りでもありました。たとえば、2節に「敵」と出て来ます。3節には、高慢で横柄な人物のことが出て来ます。彼女は誰を想定して祈っているでしょうか? 言うまでもなく、あのもう一人の妻ペニンナのことでしょう。「悔しい!」「あの人を黙らせてください!」と正直に祈りつつ、9-10節でハンナは神の「主権」を告白します。つまり、すべての判断、結論は、神様ご自身にお委ねしているのです。

 

さて、その後、サムエル記は、祭司エリと息子たちの姿を書き記しています。霊的指導者であるはずのエリとその一家の堕落ぶりはとても残念です。彼らによって神ご自身への礼拝、ささげものがないがしろにされています。父親は本来、愛と真理に基づくリーダーシップによって家庭を治めるべきですが、それをすることが全くできていません「*1。エリの目は息子たちの行状に行き届かず、語ることばは息子たちの心に届いていないのです。エリは神を尊ぶ以上に息子たちを尊ぶ(甘やかす)ことをしていました。そして、結果として彼の家には厳しい裁きが下りました。

 

一方、少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。(2:26)


父エルカナ、母ハンナの信仰がその背景にはあります。ハンナは幼くして両親から離れて生活しました。これはハンナの祈りに基づきますが、当然、エルカナの決断がなければ実現しません。年端も行かない子どもにとって、主の宮に仕える働きは楽なものではなかったでしょう。ホームシックにもなった時期があったかも知れません。そのような様子を思い浮かべて、みなさんは「かわいそうだ!」と思うでしょうか。しかし、彼は「主の前に仕え」(18)「主のみもとで成長し」(21)「主に…愛され」(26)までした。これほどの幸いが他にあるでしょうか!


仮に、彼が両親の元で何不自由なく育てられ、何でも思い通りに楽チンな暮らしをしていたとしても、エリの息子たちのように主を知らず、主を恐れず、主に仕えることがなく、大人になっても幼い人格しか持ち合わせていないなら、むしろそれこそ「かわいそう」ではないでしょうか。


この一家の姿を通して私たちは励ましを受け、憧れさえ抱きます。エリの家族とは反対に、この家族には祝福が与えられ、この後5人の子どもたちが授けられます。

 

私たち自身は不完全で、日々無力さを覚える者です。また、家族の中であなた一人がクリスチャンという境遇であるかも知れません。足りないものを数えればキリがないかもしれません。しかし、ハンナのように主に頼って祈りの人になっていこうではありませんか。また、エルカナのように、主に礼拝する人、主にささげる人になっていこうではありませんか*2。そして、次の世代に、主にある良い影響を及ぼすことにチャレンジしようではありませんか。

 

(追記)

 

このサムエル記の冒頭においては、敬虔なエルカナの家族と不敬虔なエリの家族が対象的に描かれています。エルカナとハンナの子であるサムエルは主の前に仕え、他方、エリの子であるホフ二とピネハスは供え物を侮り、主の前で大きな罪を犯しています*3。エリの家はやがて裁かれ、反対にエルカナの家は祝福され*4て、さらに子どもが与えられます。

 

人々が主を忘れ、好き放題に生きていた時代において、敬虔な前者よりも神に背を向ける後者のほうが当たり前の姿だったのかもしれません。しかし、エルカナの家族、そして、サムエルは、その時代にあっても忠実な信仰者としての姿を貫き、私たちに励ましを与えてくれています。これはただただ神の恵みと憐れみによるものです。私たちも同じ恵みと憐れみを切に求めていきたいです。

 

2:18  さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。 19  彼の母は彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに年ごとのいけにえを献げに上って行くとき、それを持って行った。 20  エリは、エルカナとその妻を祝福して、「主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように」と言い、彼らは自分の住まいに帰るのであった。 21  主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。

 

このサムエルの成長についての記録は、あの主イエスの幼年期についての記述を思わせます。

 

ルカの福音書2:52  イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

 

2:27に現れる「神の人」は、神から遣わされた預言者です。彼はエリに対して、彼らの一族がどのようにして選ばれたかを思い起こさせます。そして、彼ら一家がどのように主を軽んじているかについて、また、彼が主の代わりに息子たちを重んじたかについて、厳しい追求をします。

 

さらに預言者は未来について語ります。それは祭司の務めがエリの一族から取り除かれることについてであり、エリをはじめとする年長者は死に絶え、子孫たちは殺され、生き残りの者も物乞いをするように「どうか、祭司の務めの一つでも…ください」と懇願するようになるという深刻な内容でした。

 

2:30  それゆえ──イスラエルの神、主のことば──あなたの家と、あなたの父の家は、永遠にわたしの前に歩むとわたしは確かに言ったものの、今や──主のことば──それは絶対にあり得ない。わたしを重んじる者をわたしは重んじ、わたしを蔑む者は軽んじられるからだ。

 

しかし、神の人は希望についても語りました。

 

2:35  わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こし、彼のために確かな家を建てよう。彼は、わたしに油注がれた者の前をいつまでも歩む。

 

これは誰のことでしょうか。忠実な祭司として今後、サムエル、ツァドク*5が現れますが、最終的には、永遠の大祭司である主イエス*6を指し示しているのでしょう。

 

私たちは皆、エリの家のような愚かさを持っています。せっかく選ばれたのに主を軽んじ、別なものを重んじます。見捨てられて当然なのです。

 

しかし、大祭司イエスのとりなしによって、私たちは罪をきよめられ、救われることができます。この主イエスを通して神に近づきましょう。良いものなど何も持たない私たちですが、ただ主イエスの血潮を携えて主の前に進み出ましょう。

 

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◆ハンナをはじめとする旧約時代の聖徒たちの祈り

心を注ぎ出して 聖徒6人の祈りの姿から

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◆第一サムエルの注解

 

 

 

 

 

 

*1:むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24),「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6), 1テモテ3:1-5参照

*2:「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」(エペソ6:1-4)

*3:2:17-18

*4:皮肉なことに、祝福を祈ってくれたのはエリでした。「エリは、エルカナとその妻を祝福して、『主にゆだねられた子の代わりとして、主が、この妻によって、あなたに子孫を与えてくださいますように。』」(2:20)

*5:2サムエル8:17, 15:24-29など

*6:ヘブル2:17  したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。 18  イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。

ヘブル5:8  キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、 9  完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、 10  メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。 

ヘブル7:24  イエスは永遠に存在されるので、変わることがない祭司職を持っておられます。 25  したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。 26  このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。