道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記5-6章

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神の箱を奪ったペリシテ人たちに、「主の手」が重くのしかかりました。彼らの偶像であった「ダゴン」の神殿でも奇妙な出来事が起こり、おかしな腫物が流行病になりました。

 

アシュドデの人々は、この有様を見て言った。「イスラエルの神の箱を、私たちのもとにとどめておいてはならない。その神の手が私たちと、私たちの神ダゴンを、ひどいめに会わせるから。」(5:7)


ペリシテ人たちは神の箱を、彼らの町であったアシュドデ、ガテ、エクロンへと移動させます。神の箱の「たらい回し」です。それぞれの町に、主の手による災いが下ったからでした。結局、彼らは、イスラエル人たちをなだめるための贈り物を加えて神の箱を返却する計画を立てます。雌牛の引いた荷車が神の箱を携えてやってくるのを見て、ベテ・シェメシュ(太陽の家)という町に住んでいたイスラエル人は喜び、礼拝を捧げました。ところがなんと…

主はベテ・シェメシュの人たちを打たれた。主の箱の中を見たからである。そのとき主は、その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した。ベテ・シェメシュの人々は言った。「だれが、この聖なる神、主の前に立ちえよう。私たちのところから、だれのところへ上って行かれるのか。」(6:19-20)

 

神の箱には厳密な取り扱い規定があり、それはモーセの律法に記されていました。直接触れることがないように担ぎ棒まであったのですから、「ちょっと中を見てみよう」などということは絶対に許されることではありません。イスラエルに敵対するペリシテ人、神の民であるイスラエル、いずれにせよ、神はご自身の「聖さ」を侵そうとする者たちに厳しく、激しく臨まれました。


私たちは「なんで?ちょっとぐらいいいじゃん?」と思うかも知れません。そして、聖書が語る教えや戒めを見て「え?どうして?別にそんなことは問題じゃないでしょ?」と考え、聖書の基準ではなく、この時代の基準にすべてを合わせていこうとする誘惑が常にあることでしょう。

 

また、「本来なら、自分たちには主の手が重くのしかかっても当然だ」「聖書に書かれているような災いを受けても全くおかしくない」という視点を見失ってしまうことはないでしょうか。まるで、良い待遇を受けることが当然であるかのように考え、「どうしてもっと〜〜ならないのか?」「神はなぜもっともっと◯◯してくれないのか?」と問うことがあるかも知れません。


しかし、立ち止まってよく考えてみるべきです。

 

神の神聖さ、主の手による裁きの重さが全く考慮されることなく、どんなに「神様はあなたを愛していまーす!」「あなたは高価で尊いんですよー」と語られても、それは本当の「福音」とはなりません。

 

そして、そのような「異なった福音」は人を変える力がないのです。

 

人間が侵すことなど許されるはずのない神の神聖さを思い、それに対する挑戦をしてきた自分の罪深さを思うときに初めて、本来私たちが受けるべき「主の手による重い裁き」のすべてを引き受けてくださったイエス様の「恵みの重大さ」が深く分かってくるのです。

 

そして、この恵みに応答して聖なる*1歩みをしていきたいと、自ら進んで切に願うようになるのです。

 

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。(1ペテロ1:15-16)

 

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*1:「聖なる」という言葉からは、聖人、聖水など、日本人には「宗教的」なイメージが強く連想される。しかし、聖書の教える「聖」とはもともと「区別する」「区別された」という意味であり、クリスチャンの「聖なる生き方」とは必ずしも「宗教的」なものとは限らない。この世の常識を越えた「一味違う生き方」を意味する。心の内面において、家族関係において、仕事の仕方において、聖なる生き方をすることを模索していきたい。この時代・この世の発している「声」ではなく、聖書から神の「声」を聞き、それに従おうとする中でそのような聖なる生き方が与えられると信じるものである。