第一サムエル記14章
この章から、あのダビデと深い友情を築くことになる、サウルの長男ヨナタンが登場します。
ペリシテ人の前で臆病になって尻込みしている父親を置いて、ヨナタンは道具持ちの若者を連れて単独行動を取ります。確かにその気持ちは分かりますし、彼の行動を勇気ある行動として称讃する人もいます。でも、全面的にそう言えるでしょうか。注意深く見ていきましょう。
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ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(14:6)
勇ましいことばです。戦いは人数ではないというのも聖書的真理です。しかし、「たぶん、主が味方してくださる」というのは真の信仰でしょうか。彼らの推測の要素が強いことばです。他の多くの場合、みことばによって確信が与えられている聖徒は「必ず〜なります!」「主は〜してくださいます!」と明確に宣言するのが普通です。
また、この章に特徴的なのは、サウル王やヨナタンの家来たちが皆、「イエスマン」になっていることです。ヨナタンの道具持ちの若者は、こう語ります。
「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」(14:7)
しかし、思い出していただきたいのは、王に召される前のサウルが雌ロバを探しているとき、一緒にいた若者は「待ってください」(9:6)と語り、神の人を通してみことばを聞くよう勧めました。
親たち、教会のリーダーたち、上司などには、神様から一定の権威が委ねられています。それを尊ぶことは大切なことです。しかし、彼らは常に神様の権威の下にいるべき存在ですから、もし、彼らがその神様の権威の覆いから外れている疑いがある場合、「ちょっと待ってください。一緒にもう一度神様の御声を聞きませんか?」と促し、聖書の真理に基づいて確認をすることも時には必要です。私たちは誰かの「オココロ」で動くのではなく、みことばによって啓示される主ご自身の御心とあくまでその御心をベースとした判断・決断で行動すべきです。
ヨナタンはいくらか無謀な方法で、神様の御心を確認しようとします。このような方法は、ヨナタンの時代はともかく、聖書の啓示が完成されている今行うべきことではありません。「こういう出来事が起こったから、神様は◯◯◯と思っておられるに違いない」といった“おみくじ的判断”は危険です。自分の「オココロ」を正当化するために、このような方法を利用することもあります。
神様は憐れみによって彼らの行動を許容され、その場で命を取られてもおかしくない戦いに勝利を与えて、そのことをきっかけにペリシテ陣営を混乱させ、大勝利を与えてくださいます。ペリシテ人に強制的に協力させられていた者たちも、本来のイスラエル陣営に加わりました。
24節以下、サウルは臆病風に吹かれて自ら戦いに出なかったことを誤摩化すかのように、意味不明な誓いを立てました。多くの注解者たちは、サウルはこの箇所で「断食」「祭壇を築く」などの行為を通して自分が信仰深い(宗教的である)ことをアピールしようとしていると見ています。しかし、これは外面的なものであり、混乱を招くものでした。
この誓いを事前に聞いていなかったヨナタンは違反を犯してしまい、サウルは違反したヨナタンに死の宣告をし、民がそれをたしなめるといったドタバタ劇が繰り広げられます。民が、血抜きをしていない肉を食べるといった事件も起こっています。
私たちがこの箇所を見て、サウルが悪いのか、ヨナタンが悪いのか、それとも民が悪いのかと「犯人探し」をするのはいささか短絡的です。むしろ、ただ正しいお方は神ご自身だけであることを学ぶ必要があります。人間は、正しい人と悪い人に分かれるのではなく「義人はひとりもいない」*1のです。
ひとまずペリシテ人を撃退し(完全勝利ではありませんでしたが)、ヨナタンも一命をとりとめました。ここには、罪人たちの混乱模様が赤裸々に描かれるとともに、罪人たちのただ中で働かれる神の恵みも同時に描かれているのです。
ただ、この神の恵みに私たちの希望があるのです!
*1:ローマ3:10