道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記17章

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谷を挟んでにらみ合うペリシテ人とイスラエルの民…。ペリシテの代表として現われたのは、身長3m近い大男ゴリヤテでした。この有名な場面は絵画などにもよく描かれ、近々映画が公開されることにもなっています。ワクワクするような場面ですが、単にドラマチックなだけではありません。私たちの生き方自体に、大きなチャレンジをもって迫って来る箇所です。

 

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ゴリヤテの挑発的なことばを聞いても、イスラエルの兵士たちは「意気消沈し、非常に恐れ」(11)ていました。その中には、ダビデの兄たちも含まれていました。まだ若いダビデは出陣することはなく羊飼いの仕事を続けていましたが、父エッサイに頼まれて兄たちに陣中見舞いの食べ物を届けます。


ゴリヤテのことばを耳にしたダビデは我慢なりませんでした。神の民の軍勢が侮辱され、神ご自身が侮られていたからです。それに対して兄エリアブはダビデへの人間的な怒りを燃やします。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません。」(ヤコブの手紙1:20)とありますが、兄の怒りはまさにそのようなものでした。彼のプライドが、自分よりも勇敢な弟に対して苛立ちを覚えさせたのです。私たちの心は、ダビデとエリアブのどちらに似ているでしょうか。

 

ダビデは神の心に寄り添う人でした。…この時代において「人の心に寄り添う」ことの大切さがよく語られます。確かに、愛に基づいてそのような態度を取ることが求められる場面が多くあります。これは大切なことです。さらに「神が寄り添ってくださる」ということもよく耳にします。確かに、主は私たちの弱さに同情することがおできになりますし*1、無知で迷っている私たちを思いやってくださるお方です*2。私たちはこのことによって慰められます。しかし、あまりにもそのような面ばかりが強調されるあまり、私たちが「神ご自身の心に寄り添っていく」という視点が見失われてしまうことは落とし穴です。そこに残るものは、聖書の教える信仰ではなく、神無きヒューマニズムです。

 

神様が何を喜ばれ、神様がどのようなことを悲しまれるかに大きな関心を払いたいと思うのです。神様は今日、どのようなことに痛みを覚えておられるでしょうか。私たちの周りにあるどのような出来事に憤りを覚えておられるでしょうか。私たちの感情や願望に神様を引き寄せようともがくのではなく、神ご自身の心に私たちの心が引き寄せられ動かされていく…。ここに私たちの真の幸いと勝利があります。

 

私はまず始めに、どんな事柄であっても自分の願望ではなく神にすべてを明け渡すことを求めます。私たちが真実に主の御心に従いたいと熱望するなら、どんな困難な状況でも克服する事が出来るのです。十人中九人までの人の問題点がここにあります。これらの人々が熱心にまた真剣に願い求めるなら、神の知識の扉はあなたのために開かれるのです。 (ジョージ・ミュラー;イギリスの伝道者、孤児院を運営)*3 

ダビデはサウル王の前に自ら進み出て、ゴリヤテとの戦いを志願します。王は「お前は若すぎる。相手は百戦錬磨のベテラン勇士だ。」と留めますが、ダビデの思いは堅いものでした。王に勧められた剣や武具も自分には合わないと断り、彼は普段から使い慣れた石と投石袋を手にして戦いへと出て行きます。彼には確信がありました。

 

ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」(17:45-47)

 

ゴリヤテは自分自身の力を過信し、少年であるダビデを見くびり、勝利を信じて疑いませんでした。一方のダビデは、あくまで主ご自身が戦われることを確信していました。彼自身はまだ若く、力も経験も乏しく、弱々しく見える石しかなかったのですが、彼には「万軍の主の御名への信頼」という目に見えない鋭い武器があったのです。神は、ご自身の御名がそしられることを放置なさいません。

 

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私たちの人生には戦いがあります。とても勝ち目が無いと思えるような敵が眼前に立ちはだかることもあります。そのような時に、私たちが「この戦いは主の戦いだ!」と告白できますように。主ご自身が恵みをもって私たちに働きかけ、そのように告白させてくださいますように。

 

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