第一サムエル記18-19章
今後、「愛とは何か」「私はどのように愛に生きるべきか」と、考えさせられる箇所が続きます。「愛」に関する言葉が、注意深く選ばれて用いられているので、そのことにも触れながら解説をしていきます。
ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。(18:3)
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サウル王の子ヨナタンとダビデの深い友情が、「自分と同じほど」という表現で記されています(1節, 3節)。「自分自身のように隣人を愛する」という、聖書的な愛の姿がここにあります。
神はこの二人の信仰に基づく結びつきを用いて、ご自身のご計画をお進めになります。ここで「愛した」と訳されていることばは、感情的な意味合いの強いことばです。つまり、この段階ではまだ「いいヤツだ」「気に入った」というレベルの愛に近かったのでしょう。しかし、その愛は「契約」に基づいてやがてもっと深いレベルの愛に変化していきます。19章1節には「非常に愛していた」とありますが、そこでは単なる感情的な愛ではなく、神の愛を表す時にも用いられる語が使われるようになるのです。
この後の箇所を見ていくと、ヨナタンがまさにそのような真実な愛に生き、サウルが破滅的な自己愛に生きていく姿がよく見て取れます。誰に頼まれるまでもなくすべての人がそもそも自分を愛しています。「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。」(エペソ5:29)とあるように、人は意識しなくても自然に自分自身を保護し、育もうとするのです。しかし、その愛を過剰に肥大させていくことではなく、聖書は神を愛し、他者を愛することを私たちに教えています。そのような意味で「自分を愛そう」「セルフイメージを高めよう」といったメッセージの過剰な強調は、聖書の真理全体とは相容れないものです。
ゴリヤテを打ち破ったダビデを人々は大いに称讃し、女性たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と歌いました。「サウル王様は英雄だが、ダビデもその何倍も優れた英雄だ」という意味です。しかし、人を賛美することには落とし穴があります。ゴリヤテに対する勝利は、ダビデのものではなく主のものでした。「主がゴリヤテを打ち破ってくださった」と、真っ先に主を賛美する必要がありました。人に褒められるときよりも、人を崇拝するときよりも、神ご自身を愛し、心から賛美するとき、私たちの心は真に生きるようになります。
「…主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。」(詩篇22:26)
サウルの心は嫉妬に狂い、ダビデを自分の王位を脅かす存在として疑うようになります。神の霊*1により、サウルは狂い、わめくようになり、ついにはダビデの命を狙うようになります。サウルの心には常に恐れがありました。彼はもは主と共には歩んでいませんでした。
サウルはダビデを恐れた。主はダビデとともにおられ、サウルのところから去られたからである。… ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。イスラエルとユダの人々はみな、ダビデを愛した。彼が彼らの先に立って行動していたからである。(18:12, 14-16)
サウルは、ダビデに対して「娘を嫁にやるからペリシテ人と戦って勝利を得て来い」と言います。ダビデが戦死することを願ってのことでした。サウルにとってもはやイスラエル国のことも、娘のことも、どうでも良かったのです。自己愛に狂い、嫉妬に狂う者の末路は悲惨です。
「こうして、サウルは、主がダビデとともにおられ、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることを見、また、知った。それでサウルは、ますますダビデを恐れた。サウルはいつまでもダビデの敵となった。」(18:28-29)
ついにサウルはダビデの敵となり、公然と殺害計画を口にするようになります。しかし、ヨナタンは父の計画にくみすることをしません。なんとかダビデを守ろうとするのです。また、目立たない存在ですが、ダビデと結婚したサウルの娘ミカルも、愛に基づいてダビデを守ろうとします。
19章の後半では「預言」が見られますが、これらすべてが必ずしも(神のことばを預かって間違いなく語り告げたという意味での)正しい預言であるとは理解できません*2。恍惚、陶酔、無秩序は、神ご自身のご支配のもとに見られるものではありません。コリント14章にあるように、神は混乱の神ではなく、秩序を重んじる平和の神であられます。
参考書:自己愛の問題について考えるために…