ダビデの逃亡生活が始まります。これまで仕えて来た王に命を狙われ、親友の王子と別れての逃避行はどれほど心細く、孤独だったでしょう。将来王になることを告げられていた彼ですが、もう未来は無いと悲観してもおかしくない状況です。しかし実は、このようなダビデの試練のまっただ中で多くの詩篇が生み出されています。
このサムエル記の最初に出て来た祭司エリのひ孫、祭司アヒメレクのところにダビデは逃げ込みました。
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たった一人で現われたダビデを見てアヒメレクは不審に思いますが、ダビデに頼まれて供え物のパンを与えます。これは通常、祭司が食べるべきものですので厳密にはルール違反になりますが、しかし、究極のルールは神ご自身です。アヒメレクは神ご自身に従ってダビデを助けたのです。イエス様もこの出来事を引き合いにして、形式的にルールを守ることよりも「主ご自身の主権を認めること」が大切であると教えられました*1。
しかし、この出来事を見ていた人物がいました。それは、サウルのしもべで、エドム人*2ドエグでした。この出来事が次のように記されています。
その日、そこにはサウルのしもべのひとりが主の前に引き止められていた。その名はドエグといって、エドム人であり、サウルの牧者たちの中のつわものであった。(21:7)
「主の前に引き止められていた」とはどういうことでしょう。この出来事は「たまたま」ではなく、神ご自身のご計画の中で起こったということです。この後、このドエグの密告によってダビデの所在がサウルに知れ、ダビデをかくまったという理由でアヒメレクはとがめられ、最終的にサウルの指示で一族の者と共に殺害されます。なんと85人もの主の祭司が虐殺されるという大惨事が起こったのです。
私たちは「このドエグさえいなけば…」と思うのですが、そのような出来事すら「神の主権」の中で起こっているということを聖書は繰り返し教えます。神様はそのように惨い悲しみに満ちた出来事を好んで起こしておられる訳ではありませんが、人間の罪深い歩みを敢えて許容し、その過ちや愚かささえも用いてご自身のご計画を進められるのです。
ダビデはこの後、あのゴリヤテの出身地であるガテ、つまり宿敵ペリシテ人の町に向かいます。恐れによって混乱したダビデは、サウルの敵であるペリシテ人に助けを求めるという行動に出るのです。しかし、ガテの王アキシュと家来たちが歓迎してくれるはずもありません。騒然として彼を捕らえようとするガテ人たちを前に、ダビデはさらなる恐れに襲われ、自分の身を守るために精神錯乱に陥ったフリをするのです。よだれをたらし、暴れ回るダビデはどんな気持ちだったでしょうか。この後、彼はアドラムという場所にある洞穴に逃げ込みますが、そこでこのような詩篇が生まれます。
私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。(詩篇142:1-2)
神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、すべてを成し遂げてくださる神に。(詩篇57:1-2)
命からがら逃亡して洞穴に隠れるというどうしようもなく惨めな状態の中で、彼は主に叫び、このお方に心を注ぎ出します。彼は、究極的に彼をかくまってくれる存在は祭司でもなく、異国の王でもなく、主ご自身であられるという真理を、この激しい試練の中で学びとっていきます。そして、その試練の中で練られた信仰が、その後の王としてのダビデの歩みの土台になりました。