道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一サムエル記23章

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前の章では、ダビデが恐れの中で混乱に陥った姿を見ました。しかし、試練の中で主を呼び求めたダビデは徐々に正気を取り戻し、本来の歩みへと立ち返りつつあります。そんなダビデの元に、ペリシテ人がケイラという町を襲って脱穀所から略奪行為をはたらいているという報告が入ります。

 

そこでダビデは主に伺って言った。「私が行って、このペリシテ人を打つべきでしょうか。」主はダビデに仰せられた。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え。」(23:2)

 

   

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 報告を聞いたダビデは間髪入れずに、主に伺いを立てたのです。自分自身の判断、勘に頼るのではなく、主である神様の指示を求めました。主は「行け」と語られましたが、ダビデの部下が心配して「我々は今、サウルから身を隠すので精一杯なのにペリシテ人と戦うのは難しいのではないですか」といった趣旨の進言をします。

 

22章1-3を見ると分かるように、ダビデのもとには彼の一族の者たちや、サウル王に虐げられていた人々400名ほどが集結していました。

 

ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」(23:4)


部下の声を無視するのでもなく、部下の声に動かされるのでもなく、もう一度彼は主の御心を尋ね求めました。そして、指示通りに行動し、勝利をおさめました。


「主に伺う」「主の仰せを聞く」ことは、物事を決断をするにあたって非常に重要です。しかし、ダビデの時代と私たちの時代では、神様ご自身の働き方に違いがありますので、少し注意が必要です。旧約聖書時代において神様は、しばしば信仰者たち、特に預言者たちに直接話しかけて御心を示されました。聖書の啓示が完成した後の時代を生きる私たちは、まず、書かれている御心、すなわち聖書によって神様の指示を仰ぎます自分のしようとしている決断が、聖書の教えている神観、世界観、人生観、価値観などに一致するかどうかを確認するのです。


「A高校に進むのとB高校に進むのとどちらが御心か」などと悩む人も多いのですが、基本的に、具体的な細かい選択について聖書が直接指示を与えてくれる訳ではありません。また、自分の耳や心の中に神様の声が響いてきて「A高校にしなさい」と言われた気がしたという場合、往々にしてそれは自分自身の願望の反映であるのです。

 

では、どうすれば良いのかと思うかも知れませんが、聖書は「勉学とは何か」「そもそも人生とは何か」といった基本的な理解を与えてくれています。また、この決断に関わって来る可能性の高い「親子関係」について、あるいは「教会生活」についてなどについて教えてくれます。これらのものが私たちの選択・決断の基礎になります。聖書の教えをよく理解していくことにより、具体的な選択の「精度」が上がってくるのです

 

ダビデは、自分の居場所をサウルが突き止め、害を加えようとしていることを聞きました。彼は祭司を呼び寄せ、エポデ*1を持って来させます。

 

そしてダビデは言った。「イスラエルの神、主よ。あなたのしもべは、サウルがケイラに来て、私のことで、この町を破壊しようとしていることを確かに聞きました。ケイラの者たちは私を彼の手に引き渡すでしょうか。サウルは、あなたのしもべが聞いたとおり下って来るでしょうか。イスラエルの神、主よ。どうか、あなたのしもべにお告げください。」主は仰せられた。「彼は下って来る。」ダビデは言った。「ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。」主は仰せられた。「彼らは引き渡す。」(23:10-12)


現代を生きる私たちも、ダビデと形は違いますが、主ご自身と会話をすることができます。祈り、みことばを読み、祈り、みことばを読む…という中で、主である神様は私たちにご自身の御心をより詳しく、鮮明に示してくださいます。また、「これこれしなさい」という指示でなくとも、神ご自身のご性質、私たちに対するお気持ちを深く知らされ、私たちの心が強められることを経験できることでしょう。


16節以下には、あのヨナタンとの久々の再会が記されていますが、彼はダビデを「神の御名によって…力づけた」とあります。御名とは、単なる名前ではなく「人格そのもの」「本質」「性質」などを表すことばです。おそらくヨナタンは、神ご自身がどのようなご性質をもっておられ、どのようにダビデを守ってくださるお方であるかを分かち合ったのでしょう。

 

彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」(23:17)


以前与えられた預言がやがて必ず成就してダビデは無事に王となる…というメッセージを、ヨナタンは語りました。神は真実な方であり、約束を一つも違えることのないお方であるということを彼は証言したのです。上の写真にあるような荒野で身を隠していたダビデは、それによって力づけられました。

 

私たちも人生の荒野を経験することがしばしばありますが、その中においても、神のご性質をより深く知り、それを黙想し、それによって力を得ることができますように。主よ、どうか私たちにお語りください。

 

 

私たちに現された神のみこころ

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神を味わう

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*1:祭司の胸当て。元々は神を礼拝するための道具であったが、時代によってはそれ自体が礼拝の対象となってしまったこともある。