道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ1章1-20節

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さあ、マルコの福音書が始まります。著者マルコは、ペテロの側近であったヨハネ・マルコです。彼は、パウロ、バルナバらと共に伝道旅行にも同行した初代教会の働き人でした。マタイの福音書はユダヤ人に対して書かれているので旧約預言の引用が非常に多かったのですが、マルコの福音書はローマ人を主にした異邦人に向けて書かれています。非常にシンプルな文体で、「すると」「すぐに」といったことばとともに出来事がめまぐるしく展開していきます。

 

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マタイ、ルカの福音書とは違って、いわゆる「クリスマス」の箇所はありません。イエス様の公のお働き(公生涯)について、中でも十字架に向かう最期の1週間について多くのページを割いています。それはもちろん、福音の中心であるイエス様の死、葬り、復活を力強く明確に伝えるためです。

 

神の子イエス・キリストの福音のはじめ。(1:1)


神の子イエス・キリストという表現は、非常に短い「福音の要約」とも言えます。このことばには、ナザレという田舎町出身のイエスという人物が神の子(神と等しい存在)であり、キリスト(=メシア、救い主)であるという意味が含まれています。

 

「神の子イエス・キリスト」という意味を理解し、信じる人は皆、このお方による救いを得ることになります。この福音書を読み進めながら、「神の子イエス・キリスト」というお方の偉大さ、素晴らしさを知っていきたいと思います。


どの福音書もそうですが、イエス様ご自身の登場の道備えをする存在としてバプテスマのヨハネが用いられたことが記されています。彼はイエス様の母マリアの親戚エリサベツの息子であり、イエス様よりほんの少し前に誕生しました。イザヤの預言にある通り、彼は「主の道を用意」しました。変わった風貌で、厳しい悔い改めのメッセージを語る彼でしたが、多くの人々が彼のもとにやって来てバプテスマを受けました。

 

彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。(1:7)


どんなに人々がバプテスマのヨハネを尊敬しても、彼自身がスポットライトを当てるのは自分ではなくあくまで主イエス様でした。ヨハネの福音書では、彼が「あの方(主イエス様)は盛んになり私(バプテスマのヨハネ)は衰えなければなりません。」(3:30)と語ったことが記録されています。この謙遜さと「イエス様中心主義」は私たちのモデルとなります。

 

私たちは露骨に表現することはそうありませんが「私が栄えたい」「私が中心でいたい」と思って生きてしまう者たちです。しかし、そのような歩みを追求するなら、それは神様の目から見て愚かで貧しい歩みとなります。ただひたすらにイエス様を指差し続けたバプテスマのヨハネは、イエス様によって「女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」(マタイ11:11)と称讃されました。私たちもイエス様を指し示す者とされていきたいと思います。

 

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(1:9-11)

 

今、バプテスマのヨハネの謙遜を見ましたが、主イエス様はさらに謙遜です。私たちにモデルを示すため、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。ユダヤ教にはそもそも洗礼という習慣がありましたが、それは自分自身で何度も繰り返し行う浄めの儀式でした。

 

しかし、私たちのバプテスマは違います。私たちの内に聖霊が住んでくださることにより、私たちは新しく生まれ、キリストの体である教会に加えられます。これが聖霊のバプテスマです*1。そして、そのことを見える形で公に表す象徴として水のバプテスマを受けるのです。


この後、主イエスは荒野でサタンの誘惑を受け、ガリラヤでの宣教をお始めになります。あのシモン・ペテロを始めとする漁師たちが弟子として召し出されていきます。

 

イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。(1:17-20)


主イエスについていくために捨て置くべきものがいろいろとあります。しかも、いつかではなくすぐにそうすべきものがあるのです。それは物質的なものかもしれませんし、場合によってはある種の人間関係かもしれません。また、自分自身のこだわりや好みかもしれません。この弟子たちは随分後になってからですが、自分の命さえも捨て置くような弟子、使徒になりました。

 

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キリストの弟子は「〜を捨ててついて行く」という生き方をする人です。では、彼らはイエス様に出会って「損をした」でしょうか。そうではありません。確かに戦いの多い人生でしたが、ペテロは後にこう告白しています。

 

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。(1ペテロ1:3)

 

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(1ペテロ4:12-13)

 

 

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*1:なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(1コリント12:13)