道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ2章1-22節

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全人格的な癒し

カペナウムのある家、おそらくシモン・ペテロの家だと思われますが、そこに人々が押し寄せてきます。主イエス様の評判が広く伝わり、特に癒しを求める人々が我先にと集まったのです。しかし、主はそこで「みことばを話しておられた」(2)とあります。

 

マルコの福音書は、多くの癒しの出来事を記していますが、それは単に癒しのための癒しでありませんでした。肉体の健康ももちろん大切ですが、主は、霊的な健康、魂の救いを無視することは決してなさいませんでした。主は、人間を全人格的存在として扱われます。肉体の癒しとともに、主イエス様しか為すことのできない霊の部分の癒しを行ってくださったのです。

 

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一人の中部*1の男性が友人たちに寝床ごと担がれてやって来ます。戸口が人でいっぱいだったので、彼らは外に回ります。

 

当時のユダヤの家屋には、平らな屋上へと外階段が付いており、涼しい日中には昼寝、暑い夜にはそこで一晩眠ったりしていたようです。彼らは屋上に上り、木材の梁の上に木の枝と粘土をかぶせた屋根を大胆にも引きはがし、中風の男性を寝床ごと室内に吊り降ろします。

 

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(2:5)


中風の人自身の信仰と、仲間たちの信仰の両方を、主はご覧になられました。プライドをかなぐり捨て、友人たちに身を委ね、何としても主イエス様に近づきたいと願った病気の人…。病に伏している友人を憐れみ、彼のために行動し、障害が立ちふさがってもあきらめずに創意工夫した友人たち…。このような祈りの輪、信仰の輪を、主はご覧になってご自身の力を現してくださいます。


律法学者たちは「罪は赦された」という主イエス様の発言を聞いて、穏やかではありませんでした。罪を赦す権威は神ご自身だけにあると考えられていたので、主は事実上の「神宣言」をなさったのです。心の中でぶつぶつ言っている彼らの内側を見抜いた主は、病の癒しを宣言し、ご自身の神的権威を見える形で証明されました。


この後も再三、律法学者たちやパリサイ人との論争が続きます。彼は、主イエス様が、当時の社会では同胞に対する裏切り者と考えられてた取税人を救い、社会のつまはじき者たちに目を留めて関わりをもったことが面白くなかったのです。


パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(2:16-17)

 

本来、主イエス様を必要としない健康な人などいません。しかし、自分の魂が健康で丈夫であると“思っている”人々はいます。彼らは「自分が正しい生き方をしている」「私は別に救っていただかなければならないような者ではない」と主張して、魂の医者であるお方の診察、診断、治療を拒みます。

 

悔い改めさせるため

しかし、「私は病気です。どうか私をお癒しください」と切に求める者を、このお方は喜んで招き入れてくださるのです。そして、患者が真にこの医者に身を委ね、このお方の治療方針に従う時、霊的な部分の癒し、すなわち救いがもたらされます。これは単に心が慰められるとか、励まされるということとは違います。ルカは、主イエス様のことばをより詳しくこのように記録しています。

 

わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。(ルカ5:32)


悔い改め(メタイノア)とは、自分中心から神中心への「方向転換」を表すことばです。医者である主イエスの招きに応じて「私を救ってください」と願い求める者は、霊の方向転換という根本治療を施していただくことができます。

 

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)

 

私たちはこのみことばに同意するでしょうか。同意する人の中には既に聖霊が住んでくださっています。そして、どんなに私たちの罪の性質が醜く頑固であっても、この治療を全うしてくださいます。これは、徐々に効いてくる特効薬を注射されたようなものです。私たちは、全人格的な健やかさ ーキリストの似姿ー へと変えられ続けていき、真に悔い改めた神中心の生き方をするよう導かれていくのです。

 

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)

  

 

新版 イエスの生涯~エゴー・エイミ~

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*1:脳血管の病気により身体に麻痺が出ている状態。