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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

『神を見る生活』(ロイ・ヘッション著)

随想 読書

 神を見る生活

 

絶版になってしまった本の中に沢山の良書があります。あるものは緻密な神学書であり、あるものは心震えるような個人の神探求の記録です。この書物も、その中の一つと言えるでしょう。若い日にこのような書物にふれて読むことができるなら幸いです。また、人生経験を重ねた上で自分自身の人生を見つめ、振り返りながら読むことも幸いでしょう。

 

弟子たちは、神はどうしても測り知ることのできないおかたであると悩んでいたが、そのうちのひとりがある日、主イエスに、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」と言った。イエスはこれに答えて、「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14:9)という驚くべき声明をされた。のちになってパウロは、新約聖書の中でコロサイ人に向かい、同じことを言っている。「御子は、見えない神のかたちであって」(コロサイ1:15)。さらに彼はコリント人に、「神はキリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照らしてくださった」(第二コリント4:6)と言っている。

 

ここで私たちの理解を最も助けてくれるものは、イエス・キリストの顔の中に神の栄光を知る知識の光が見られると言うこの句である。光というものは照らす相手がなければ見えない。私たちはへやの中にさし込む光線が見えると思うが、事実はそうでない。私たちが目にするのは空中に浮かぶゴミであって、それに光が反射して光の存在を知らせるのである。

 

「神は光である」(第一ヨハネ1:5)とあるが、神は何かを照らしてご自身を啓示するのでなければ、見ることも知ることもできないおかたである。神の照らす対象物はイエス・キリストの顔である。この御顔を見つめると、それ以外のところには見られない神の栄光を知る知識の光が、私たちの心を照らすのである。(『神を見る生活』より)

 

神を見る生活

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