マルコ3章20節-4章9節
再び本末転倒
前の箇所に引き続き、ここにも「本末転倒」が見られます。神ご自身による働きを悪魔によるものと決めつけ、自分たちが正しいと信じながら実は悪しき霊の策略に支配されている人々がいるのです。
イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ」と言う人たちがいたからである。また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。(3:21-22)
応援クリックを!
家族、親族が、主イエス様を狂人扱いしています。エルサレムからはるばるやって来た律法学者が、主を悪魔憑き扱いするのです。しかし、主イエス様を認めないことが狂気であり、神の霊の働きを認めないことこそが悪霊の支配下にある証しであることを私たちは知る必要があります。彼らは正しいことをしているつもりで、神の正義に真っ向から対立しているのです。「神様がこのことをどう見ておられるか」を思いながら、価値判断をしていく必要があります。
しかし、主は「彼らをそばに呼んで、たとえによって話され」(3:24)ました。「馬鹿ヤロー。あっちへ行けーっ!」と蹴散らしても何らおかしくありませんが、憐れみ深い対応をなさるのです。主は、なんとかして彼らが真理に目を開き、悔い改めることができるよう働きかけておられます。
それでも、最後に主はこう厳かに語られます。
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。(3:28-29)
この永遠に赦されない罪とは、直接的にはこの時代のユダヤ人たちに適用されるものでしょう。つまり、メシアの証しである奇跡を「悪魔の力によるもの」と決めつけ、目の前にいる主イエス様を拒んだ彼らの罪です。しかし、現代を生きる私たちも厳かな思いをもって主のことばを聞きたいと思います。悔い改めのための扉は開かれていますが、しかし、無制限ではありません。
これは故意に目を閉ざし、聖霊の照明を徹底的に拒み、聖霊のみわざに反対し、故意に聖霊を誤って伝え、それによって自分を正当化することである。このようなことに赦しはあり得ない。なぜなら、神が備えてくださった唯一の赦しの道を拒んだからである。事実、彼らは門戸を閉ざしたのである。(R・アラン・コール)
弟子、そして、家族
母マリヤと兄弟たち*1が来て、主イエス様に会おうとします。ここでの主の対応を見ても、マリヤも兄弟たちもおそらく前に出て来た親族たちとそう変わらない考えで主を見ていたのでしょう。
自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(3:34-35)
私たちが主のそばにとどまり、みことばを通して「みこころ」を知り、それに実際に行っていく時、主は私たちを「弟子」と呼んでくださるだけではなく、「家族」と呼んでくださいます。なんという特権でしょうか。幸いなことに、後に、マリヤも弟たちもこの真の家族関係に招き入れられます。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:5)
真にキリストにある人間関係は、血縁や昔からの付き合いというものを越える豊かさと深さを持っています*2。天の父なる神様を親として敬い、従おうとする神の子どもたち同士の関係は、何よりも深い一致を生み出します。もし、私たちクリスチャンの間に一致がないとするなら、それは父なる神様を見失い、神の子とされている特権を忘れているからかもしれません。
また、難しい家族関係の中にキリストの影響力が及ぶ時、家族が真の意味で「家族となる」という経験が起こります。本当の意味で親を敬い、聖書的な方法で伴侶を愛し、子育てをしていくということが起こっていくのです。私たち自身の、家族との関係を聖書的な目で見つめ直したいと思います。
「主よ、あなたが私たちをあなたの家族としてくださっていることに感謝します。なんともったいない恵みでしょうか。主よ、どうかその恵みの力が、私たちの肉の家族関係にも及びますように。私が家族関係の中でも、主のみこころを行うことができるようにあなたが助けてください。アーメン」