道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ4章35節-5章20節

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人であり神であるお方

湖のほとりで教えをなさっていた主イエス様は、夕方になって「さあ、向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに語られます。

 

そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。(4:36-37)

 

すり鉢上の地形にあるガリラヤ湖では、このような突発的な嵐がしばしば起こります。舟を操ることに長けた漁師出身の弟子たちでさえ慌てふためくような激しい突風が吹き荒れました。

 

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この箇所を見ると弟子たちはまだ「このお方はどういう方なのだろう」と不思議がっていますが、主イエス様は、完全に人であられ、同時に完全に神であられであられるお方です

 

枕をして眠っておられたということころには、肉体的な疲れを覚える「人」としてのお姿が現われています。ことばによって一瞬のうちに嵐を静める行為には、被造物をご支配なさる「神」としてのお姿が現われています。

 

ゲラサの狂人の救い

 

こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。(5:1-2)*1


主イエス様は、たった一人*2の哀れな状態に陥っている人物に出会うため、湖を渡られました。彼は墓場に住み、鎖でつながれても引きちぎり、叫びながら自傷行為をしています。彼の口を通して、悪霊は「レギオン」と名乗りましたが、これはローマの軍隊における数千人の部隊を指すことばです。彼には多数の悪霊がついていたのでしょう。悪霊は、主イエス様が真の神の子であることを知っており、恐れました。


主は、悪霊がこの地方で飼われていた豚の中に入ることを許可され、その結果、二千匹もの豚が溺れ死んでしまいます。「なんでイエス様はこんな酷いことをなさるんだ?」と言う人々もいますが、私たちはそれ以上に「主は、なぜこれほどまでに一人の罪人を憐れんでくださるのか」と問い、それを自分に重ね合わせて考える必要があります*3。主は、ただ彼に会うためだけに嵐を越えて湖を渡られたように見受けられます。そして、この主は私たちにも同じように出会ってくださり、豚どころかご自身の命をさえ投げ出してくださいました。そのことにより、罪と自我と死に捕われていた私たちは救われたのです。

 

この男は正気に返り、主イエス様について行きたいと希望します。しかし、主はお許しにならず、家族のもとに帰って「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」と言われます。

 

私たちが主にお仕えする道は、必ずしも自分の希望する形ではないかも知れません。牧師になりたいと思っても学校の教師になるよう導かれる人もいますし、ビジネス界での活躍を願っても宣教師になるよう導かれる人もいます。いずれにせよ、救いの喜びと感謝に押し出され、主ご自身の偉大さを証しする歩みは幸いです。

 

そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。(5:20)

 

 

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*1:ゲラサ人の地は、別の福音書でガダラ人の地となっている。ゲラサもガダラもデカポリス地方の町の名前であるが、豚が水になだれ込むにしてはガリラヤ湖から遠すぎる。千葉や埼玉の企業や学校などが「東京◯◯」を名乗ったりするように、当時よく知られた町の名前はその地域全体を指すために用いられることがあった。おそらくそのような理由で、現代の私たちには理解しにくい地名表記になっていると思われる。

*2:マルコとルカでは一人、マタイでは二人。マルコとルカは、より重篤な状態にあった一人の人物に注目して記述していると考えられる。

*3:「豚の持ち主たちがこのことを非難した記録はない。持ち主たちは、豚を飼うことが禁じられていたユダヤ人たちだったかもしれない。」(ウィリアム・マクドナルド)