マルコ6章30-56節
生活と教理
二人ずつ派遣された弟子たちは、しばらくの時を経て主イエス様のもとに戻ります。
さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。(6:30)
マルコはこの箇所でのみ「使徒」という表現を用いています。使徒ということばは、遣わされた者たちという意味です。自分たちで勝手に出かけていったのでなく、主によって派遣されました。ですから、帰って来てすべてを報告する責任があります。彼らは「したこと」「教えたこと」を逐一報告しました。私たちクリスチャンも、主によってこの世界に遣わされています。
しかし、ともすると私たちは、行いばかりに目がいって教理を疎かにする「行動主義」に陥ります。逆に、頭でっかちになって生き方が伴わない「教条主義」に陥ることもあります。主は、私たちの生活に関心を持っておられます。そして、私たちが信じ他の人に分かち合う教理についても関心を持っておられます。
「主よ、今日(今週、今月)の私の生き方はどうだったでしょうか?あの時、あの場所で行ったことは正しかったでしょうか?」と祈りたいと思います。また、「主よ、私が信じていることは聖書に沿った真理でしょうか。あの時、あの場所で発言した内容は、あなたの御心に適っていたでしょうか?」と、私たちはイエス様のもとに行き、ご報告をし、指示を仰ぐ祈りを捧げたいと思います。そして、生活と教理が一体となった人生を送るように導かれていきたいと思います。
休養命令
そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。(6:31-32)
これは「休養命令」です。もちろん肉体を休めることもそうですが、心を休め、霊をしずめる必要がありました。結局のところ、彼らのリトリートは群衆によって妨げられてしまうのですが、それでも主がこのような「命令」をなさっていることを大切に受け止めたいと思います。
私たちの心は何かあると一瞬の内に騒いでしまいますが、逆に、それを静めることには少々時間がかかります。ある人はこれを「泥が底に沈殿している水」にたとえています。掻き混ぜると一瞬で濁ってしまうが、澄んだ状態になるには時間を要する…。大掛かりなリトリートがすぐにできなくとも、まずは少しの時間でも手を止め、深く呼吸をし、ゆっくり声に出して御言葉を読んでみましょう。
あの手この手の弟子訓練
この後、有名な「五千人の給食」の出来事が起こります。この時期の主イエス様のお働きの焦点は「弟子訓練」にありました。
主は、群衆が羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれまれ、教えをなさいます。主は、弟子たちに「霊的なニーズを見抜く目」「憐れみの心*1」「教え」を分かち合おうとしておられるのですが、残念ながら彼らは鈍感です。彼らの目は霊的なことには向かず、食事の心配をしながら「先生、そろそろメッセージを切り上げて皆を解散させましょう」と言うのです。
すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリ*2ものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」(6:37)
イエス様は弟子たちを訓練するためにテストをしておられます。結論から言うと、「主は有り余るほどに必要を満たしてくださるお方であると信じる」という信仰を訓練しておられるのです。しかし、弟子たちも私たちも、なかなかそのことが分からず、右往左往します。「お金がないので無理です!」「ここは田舎ですから店がありません!」と言いたくなるのです。主を信頼し、主から恵みを受け取るなら、私たちはそれによって他者の必要を満たすことができます。
五千人の給食の出来事に引き続いて、弟子たちはまた舟に乗ります。主は、今度は一緒に乗らず、山で祈っておられました。主は、祈りながら彼らをご覧になっておられました。そして、なんと湖の上を歩いて彼らに近づき、話しかけられます。まさに「あの手この手」の弟子訓練です。
それでも、弟子たちがまだまだ心を堅く閉じていて、悟らなかったとマルコは記録しています。弟子たちの愚かさと主の忍耐深い訓練…。勝利を収めるのはどちらでしょうか。
私たちも主の弟子訓練を受けている最中です。何度教えられても同じ失敗を犯す自分にがっかりし、主も私に対してがっかりしておられるだろうと思うことがあります。しかし、聖書はこう言います。
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。(2コリント3:18)
これは、私たちの業ではなく、御霊なる「主の働き」です。私たちのなすべきことは、このことを信頼することです。ここに希望があります!