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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ7章1-23節

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神のことば vs 人間の言い伝え

パリサイ人と律法学者が、150km以上離れたエルサレムからわざわざやって来て、主イエス様の回りに集まりました。そして、彼らは主に「あなたの弟子たちはどうして汚れた手でパンを食べるのですか?」と質問をするのです。

 

これは衛生的な問題について話しているのではなく儀式的な事柄について語っています。「よごれている」のが問題なのではなく、浄めの洗いをしていないゆえに「けがれている」ことが彼らに取っては問題だったのです。

 

2-4節にあるように、当時のユダヤ人たちの生活は膨大な数にのぼる詳細な言い伝えやしきたりによって拘束されていました。これは、これはミシュナーと呼ばれ、律法学者たちが何百年もかけて積み重ねて来た「モーセ律法の解釈」です。聖書を熱心に研究するのは良いのですが、彼らはいつの間にか自分たちの解釈を聖書本文よりも重要なものとするようになっていたのです。


主は、この律法学者やパリサイ人を「偽善者」とお呼びになり、イザヤの預言を引用して「口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」と語られました。

 

「あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」(7:8)

 

このようなことは当時のユダヤ人だけでなく、現代のキリスト教会の中でも起こり得ることです。聖書本文そのものよりも、「ウチの牧師先生はこう仰っている」「我々の教団では昔からこういうしきたりだ」といったものが権威を持つようになってしまう現象です。

 

尊敬する◯◯先生がどう語っているか、影響力のある◯◯さんがどう思うか、前例はどうだったか、自分自身がどう感じるかといったことに権威を置くのではなく、「聖書が何と言っているか」に権威を置く考え方する必要があります。しかも、勝手な解釈や部分的な引用ではなく「聖書が本当に何を言っているか」が決定的に重要なのです。

 

心の内側が外に出て来る

彼らは何のために膨大な数の言い伝えを熱心に守っていたのでしょうか。それは、神ご自身に忠実に仕えたいという願いではなく、自分を高め、自分を守り、自分を喜ばせたいという肉的な願いが心にはありました*1だからこそ、主は彼らを偽善者と断定され、心の内面の問題に話を移されます。

 

また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」(7:20-23)

 

声高に叫ばれる「正義」の本当の動機は一体どこにあるでしょうか。「あの人のああいう言動は許されるものではない」と語るあなたは、本当のところ何を願ってそう語っているのでしょうか。

 

私たちは主の御前に進み出て、他の誰でもなく自分自身がいかに自己中心で、いかに内側からの改革を必要としている者であるかを認める必要があります。私自身、常に「主よ、私を内側から変え続けてください」という祈りを必要としています。変えられた心が、変えられた言葉と生き方を生み出していくのです。

 

人間の言い伝えによってではなく神のことばによって、私たちは心の中の考えが変えられ、そこから出てくる言葉、行動が変えられていきます。

 

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:16-17)

 

 

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*1:主は、そのことを表す顕著な例としてコルバン(捧げもの)について触れておられる。親の面倒を見るためのお金を出したくない時、彼らは「これはコルバンにするので…」と宣言した。そう宣言すれば、財産は神殿に納めるか自分のために使うか選択できるという言い伝えがあったのである。もはや彼らの生活の中では、神ご自身の御名も自己中心的な生活の「方便」として用いられていた。