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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ8章11-38節

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4000人の給食の出来事を経て、主イエス様と弟子たちはダルマヌタ地方に行かれます。これは並行記事では、マガダン地方となっており、ガリラヤ地域のマグダラのことであろうと推測されます。

 

さて、そこに再びパリサイ人*1がやって来て、主に対して議論をしかけます。彼らは、主が神のもとから来られたお方である顕著な証拠を求めましたが、主は悲しみを覚えて深く嘆息され、それに応じようとはなさいませんでした*2。彼らはこれまでに十分な証拠を見聞きしてきたはずです。しかし、受け入れないのです。データや情報が足りないのではなく、信じようとしない心が問題なのです

 

 

気をつけるべき「教えのパン種」

主は彼らを離れて舟に乗り、再びガリラヤ湖の東岸、異邦人の地へと赴かれます。主は、舟の中で弟子たちにこのように語られました。

 

イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」(8:15)


主はここで、パリサイ派の律法主義的な教え、ヘロデ党の世俗的な妥協主義などに警戒を呼びかけておられます。並行記事では、さらに神の力や復活をを信じないサドカイ派の教えへの注意も呼びかけられています。現代のキリスト教会における大きな危機はパン種すなわち「教え」に十分気をつけない風潮が強くなっていることです。「教えよりも実践が大事だ」とか「小難しい教理よりもいかに教会が成長するかの方法を考えた方が良い」などの考えがはびこり、処女降誕や復活を否定する自由主義神学、物質的な祝福を過度に強調する繁栄の神学、安易にビジネスの手法を教会に取り入れることなど、様々な「パン種」が教会を蝕んでいます。

 

本来私たちが目指すべきところは「正しい教えに基づいた正しい実践」です。パウロは、若き指導者であったテモテにこう語っています。

 

自分自身にも、教える事にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。(1テモテ4:16)

 

さて、舟の上の主イエス様と弟子たちに話を戻します。主は「教え」について話しておられるのに、弟子たちは「あ!お弁当のパンを持ってこなかった!」と騒ぎ始めます。あまりに議論が噛み合ない中、主は「なぜ議論しているのか? 分からないのか? 悟らないのか? 心が閉じているのか? 見えないのか? 聞こえないのか? 覚えていないのか?」と弟子たちを質問攻めになさいます。

 

そして、ユダヤ人の地と異邦人の地とで二度行われたパンの奇跡を振り返って弟子たちに「イエスとは誰か?」を考えさせておられるのです。しかし、弟子たちはなかなか本質を悟ることができません。


徐々に目が開かれていく

一行はベツサイダの町に着き、主はそこで一人の盲人の癒しを行われます。これは非常に珍しい「段階的な癒し」です。この出来事は「徐々に目が開かれていく」という霊的な覚醒、成長を象徴的に指し示しています。この盲人の目がそうであったように、弟子たちの霊的な目も、私たちの霊的な目も、段階を経て徐々に開かれていきます。

 

それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」(8:27)

 

偶像礼拝やローマ皇帝礼拝の盛んなピリポ・カイザリアで、主は「人々はわたしをだれと言っているか」と尋ねられ、続いて「あなたがたはどうか?」と弟子たちに聞かれます。ここでペテロは、有名な信仰告白をします。詳しい記録はマタイの並行記事にあるので引用してみましょう。

 

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:15-18)

 

「イエス様、あなたはキリストです!」「生ける神の御子キリストです!」という信仰告白は、決定的に重要なものです。他の人がどう言うかではなく、私たち自身がどのように告白するかが重要です。この信仰告白の上に教会は建てられていますし、私たちひとりひとりのクリスチャン生活は立て上げられていきます。

 

しかし、この告白はある意味で出発点です。ペテロはこの後すぐに、十字架の苦難を予告された主をいさめようとして逆に厳しいお叱りを受けます。まだ、理解が不十分だったのです。ペテロの中で「イエス様こそ、生ける神の御子キリスト!」という信仰告白が本物として深まったのは、十字架と復活、聖霊降臨(ペンテコステ)の出来事を経てのことであったでしょう。

 

そして、彼はそれ以後も様々な経験をしながら、生涯を通して主イエス様に対する理解の目が開かれ続ける歩みをしたのだと思います。


ペテロはやがて、こう書き記します。

 

生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。主のもとに来なさい。(1ペテロ2:2-4)


すでに主を知り、主のいつくしみを味わっているクリスチャンたちに対して、「成長するためにみことばを慕い求めよ」「主のもとに来なさい」と彼は語るのです。クリスチャン生活は、まさに生涯学習なのです!


 

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*1:並行記事ではサドカイ人たちも

*2:マタイの並行箇所では、次のように詳しく記されている。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。そう言って、イエスは彼らを残して去って行かれた。」(16:4)ヨナのしるしとは、十字架の死と葬りの三日間、復活を指す。