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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ9章1-13節

マルコ

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さらに集中して行われる弟子訓練

次の一節は、以前から様々な意味に理解されて来た箇所です。

 

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」(9:1)


ある人々はここで言われている「到来」が、十字架と復活を意味すると理解しますし、ある人々はペンテコステの出来事や初代教会の発展を意味すると理解します。しかし、文脈から言うと、この直後の「山上の変貌」を意味すると理解するのが最も自然です。

 

それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。(9:2)


十二弟子という選抜メンバーの中から、さらに主は三人だけを選んで特別な訓練を与えます。共に時間を過ごして体験を共有し、彼らにご自身を特別に開示され、親しく詳しくお話しになりました。この三人だけが山の上で「神の国が力をもって到来」するのを目撃する特権に与りました。「それぞれにふさわしい」ということと「みんな同じ」ということは別です。主は必ずしも平等主義者ではありませんでした。むしろ、やがて初代の教会の中心となる人物たちを集中的に訓練されたのです。これは、教会が引き継ぐべき弟子訓練の原理です。


初代教会において、パウロもテモテやテトスを特に選び、弟子訓練を行いました。パウロの指導を受けたテモテは、さらに「多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだね」(2テモテ2:2)ることをしました。

 

現代においても、健全な教えを保ちながら成長をしている教会は、このような弟子訓練の体質を持っています。

 


聖書全体の語る「青写真」

高い山は、カトリック教会の伝承によって長い間タボル山と考えられてきましたが、現在は、周辺で最も高いヘルモン山(写真)のどこかでこの出来事が起こったと考える学者も多くなっています。

 

山上で変貌された主イエスは、洗剤のコマーシャルではありませんが「驚きの白さ」でした。これは、私たちに将来与えられる「栄光のからだ」「復活のからだ」を指し示しています。また、そこにエリヤとモーセが現れています。エリヤは預言者を代表する存在であり、モーセは律法を表す存在です。彼らを足すと「旧約聖書」になると言っても過言ではありません。ルカはこのように記録しています。

 

祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。(ルカ9:29-31)


モーセとエリヤが象徴するところの「旧約聖書」には何が書かれているでしょうか。ユダヤ人たちは、やがてメシヤが現われて神の国*1を築いてくれるという約束が書かれていると考えています。それは確かにその通りなのですが、見落としてはならないことがあります。

 

神の国を築く前に、メシヤは苦難を受けなければならないと言うことも旧約聖書は語っているのです。この山の上に現われたモーセとエリヤは、まさにその苦難に満ちた「ご最期」について主ご自身と話し合っていたのです。


ペテロたちはまだこのことをよく理解してはおらず、多くのユダヤ人と同じように「メシヤが現われて神の国を築いてくれる」という考えしかありませんでした。

 

新約聖書を持っている私たちは、二千年前のメシヤの「初臨」と将来に起こる「再臨」とがあることを知っていますが、彼らは「メシヤが来る」ということしか分かっていなかったのです。

 

そういう意味では不十分な理解でしたが、しかし、この経験を通して彼らは「イエス様こそがメシヤだ」という確信を深めたことでしょう。主は、まだ不十分な理解にとどまっている弟子たちに「いま見たことをだれにも話してはならない」と念を押されました。


この後、主と弟子たちはエリヤについて話し合います。旧約聖書の最期の書である「マラキ書」を見ると、メシヤが現われる前にエリヤが来るということが預言されているからです。

 

「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。」(マラキ3:1)


この「使者」とは誰のことでしょうか。それは、主イエス様の到来の道備えをしたバプテスマのヨハネのことです。彼が誕生する前、み使いはこのように語りました。

 

「彼(バプテスマのヨハネ)こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(ルカ1:17)

 

エリヤの霊を受けたバプテスマのヨハネは、主の初臨の道備えをした後、首をはねられて死にます。そして、聖書は、主の再臨の道備えをするために再びエリヤが遣わされることをも語っていますが、これについてはまた別の機会に触れましょう。

 

いずれにせよ、聖書全体がどのような歴史観、将来像を教えているかを知ることは重要です。再臨について、聖書預言についての理解は、私たちの生き方を変えます。コツコツと地道に学びながら、聖書的な「青写真」を身につけていきたいと思います。その大きな青写真に基づいて自分自身の人生を考える時、本当の意味で「キリストの弟子として生きる」という道が示されてくるのです。

  

道 : 信徒のための弟子訓練入門

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聖書預言の旅

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*1:メシヤ的王国、千年王国とも呼ばれる。