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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ9章14-32節

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山上の変貌という劇的なシーンの目撃者になった三人の弟子たちが主イエス様と一緒に山を降りると、そこには残りの弟子たちと律法学者が論じ合っている姿がありました。さらに大勢の群衆がその周りを取り囲んでいます。一体何事が起こったのでしょうか。

 

主の「がまん」

 

群衆のひとりが事情を説明します。実は彼の息子が「口をきけなくする霊」に憑かれ、苦しめられていたのです。彼は、山の麓に残されていた主の弟子たちに助けを求めますが、彼らはその霊を追い出すことができなかったのです。

 

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」(9:19)


このことばは群衆と弟子たちに向けて語られました。そして、特にいつも「いっしょに」いた弟子たちの不信仰を主は嘆かれたのです。

 

私たちは、主の我慢について考えてみる必要があります。「神様はあなたのありのままを喜んで受け入れてくださる」というメッセージは、耳に心地よいかも知れません。しかし、神が私たちの不信仰や罪を喜んでおられるという教えを聖書の中に見いだすことはできません。主は私たちを憐れみ、恵み深く扱ってくださっていますが、そこには計り知れないほど大きな忍耐、犠牲を伴う我慢があることを私たちは覚え、より深く感謝する必要があります。そして、不信仰ではなく信仰に生きることができるよう助けを求めたいと思います。

 

 

信仰による祈り


悪霊に憑かれた息子をもつ父親は、主に「もし、おできになるものなら助けてください」と頼みます。私たちも彼と同じように「もし、できれば〜〜してください」と祈ることがあるかもしれません。しかしよく考えると、そのような態度は、神ご自身の「全能」を認めないものではないでしょうか。

 

するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(9:23-24a)


注意すべきことは、ここで「信じれば願いが叶う」「念じれば実現する」といった成功思考法の類いが教えられているのではないということです。問題は「信念の強さ」ではなく、「神への信頼」です。主は、全能の神への信頼があるところにご自身の力を現してくださいます。私たちは「神の御心ならば、不可能なことは一つもない」という信仰を持つ必要があります。

 

しかし、この父親は、24節の後半で「信じます。不信仰な私をお助けください」と叫びます。ある注解者は「この父親は、どの時代の神の民も経験した『信仰と不信仰のパラドックス』を表明した」と語っています。内容に矛盾があるように聞こえる叫びですが、正直な叫びです。私たちも彼と一緒に叫びたいと思います。なぜなら、信じることすら、神ご自身の助け無しにはできないからです。自分自身の信仰を強めてくださいと祈ることは、見落とされがちですが、私たちの信仰生活にどうしても必要なことです。

 

すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(9:29)


私たちは時に、無力感を覚えながら「祈ることしか出来ない」という言葉を使うかも知れません。しかし、それは大きな間違いです。祈りによらなければ突破できない壁があります。信仰の伴った祈りによってのみ動かすことのできる困難の山があるのです*1

 

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)

 

 

「祈りは初めて」という人のための本

「祈りは初めて」という人のための本

 

 

とりなしの祈り The Ministry of Intercession

とりなしの祈り The Ministry of Intercession

 

 

 

 

 

 

*1:イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」(マタイ17:20-21)