聖書的リーダーシップ論
十字架の苦難についての予告を主から聞いた弟子たちは、しかし、自分たちの中でだれが一番偉いかを論じ合いながら歩いていました。
変貌の山に連れて行かれた三人を妬む弟子たちがいたかも知れませんし、一方この三人は「俺たちはすごいものを見たんだぞ」という言葉が喉元まで出かかっていたかも知れません。メシヤ的王国の到来を間近に感じて、それぞれに自分たちは一体どのような地位をいただけるのだろうかという期待と不安があったかもしれません。主の忍耐深い訓練が、ご自身の心とは大きく隔たりのある弟子たちに対して続けられます。
イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(9:35)
「仕える」ことはすべての信仰者に求められるものですが、特にここでは「人の先に立ちたい」という志を持つ人々がどうあるべきかが語られています。聖書的リーダーシップ論といっても良いでしょう。
「しんがり」は軍事用語で、退却する時に追跡してくる敵から仲間を守りつつ最も後で退却する部隊のことを指します。リーダーは、敵からの激しい攻撃を受けている時に身を挺して仲間を守ろうとする、しんがりとしての姿勢を求められます。
また、リーダーとしての決定権や権威が委ねられた時に「主ご自身と人々に仕える」という方向性を見失ってはならないのです。しかし、残念ながら現時点での弟子たちはまだそのような資質を身につけておらず、「責任は取りたくない。でも、地位は欲しい」という心で歩んでいたようです。
主は弟子たちの理解を深めるため、一人の子どもを呼び寄せてこう言われます。
「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(9:37)
最も大切なことは、小さな親切やささやかな行いも「何が動機となっているか」ということです*1。これが、神の国のチームにおける「チームワーク」を左右します。
後に使徒パウロは、誰が偉いかという問題や分派騒ぎで混乱していたコリント教会に次のように書き送っています。
また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)
パウロをはじめ使徒たちは威厳あるリーダーとして権威を行使していましたが、このように語っています。それは彼自身のためではありませんでした。
私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。(2コリント4:5)
チームに属する一人一人が「キリストのために生きるしもべ」というアイデンティティを持つ時、そこには一致と高い志が生まれ、神の国の働きを力強く推進していくことができるのです。
聖書的家庭論
10章に入ると、結婚についての教えがなされます。「夫婦」というものは最小かつ最重要なチームといえるでしょう。私たちがはっきりと理解すべきことは、結婚は神が制定されたものであるということです。
「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(10:6-9)
主ご自身が、わざわざ創世記を引用して教えておられます。主はご自身の口から神のことばをお語りになることができるお方でしたが、書かれたみことばの権威を強調しながら教えをなさいました。家庭とは何か、夫婦はどうあるべきかを決めるのは、人間的な都合や時代の流行ではなく、聖書に記されている教えなのです。
夫婦の役割について、同性愛について、子どものしつけについてなどなど、キリスト教界においても時流に乗って聖書から離れようとする人々がいることは大きな問題です。弟子たちが家に戻った後により詳しい教えを求めたように、私たちも「主よ、もっと教えてください」と御声に耳を傾けたいと思います。
- 作者: J.オズワルドサンダース,J.Oswald Sanders,福田里美
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*1:マタイの並行箇所には「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(18:3-4)とあります。御国に“入る”ためには、子どものように、無力を認めて神ご自身に頼る必要があります。御国で“偉い人”になるためには、自分を低くして従順に仕える必要があります。