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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ10章13-34節

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子どもたちを来させなさい


弟子たちは、主イエス様のもとに子どもたちが連れて来られたのを見て彼らを叱りました。しかし、その弟子たちが主からのお叱りを受けます。

 

 

 「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(10:14b-16)


主イエス様が仰ったのは「子どもたちに今流行の◯◯を買い与えなさい」でもなく、「子どもたちに勉強をさせなさい」でもなく、「子どもたちを、わたしのところに来させなさい」です。

 

主は、子どもたちを身近に置き、抱きしめ、手を置いて祝福なさりたいお方です。クリスチャンの大人たちの責任は、第一に、自分自身が常に主のもとにいることです。自分たちがそうしていないのに「子どもたちよ、主のもとへ行け!」とは言えないのです。幼子が大人に依存するように、私たちクリスチャンはプライドや自己依存を捨てて素直に主に依存する必要があります。

 

そして、第二の責任は、次世代を主のもとに来させることです。子どもたちが主を知り、主のみことばを信頼していくことができるよう導きたいと思います。彼らの妨げとなるのではなく、妨げを取り除く存在になりたいと願います。そして、今日は特に教会に連なる仲間たちの子育ての守りと祝福のため、また、キッズミニストリーの祝福のために心を込めて祈りたいと思います。

 

 

行いによる救いはあるか?

 

ひとりの金持ちの青年が、主イエス様に「尊い先生、永遠のいのちを受けるために何をしたらよいでしょう」と尋ねます。主は「尊い方は、神おひとりのほかに、だれもありません」と語られました。ここには「私がその尊い神であることをあなたは気づいているかい?」という問いかけが込められていますが、彼はそれに気がついているでしょうか。

 

主は当時の人々の理解に基づき、モーセの十戒を引用なさいます。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。」といったモーセ律法のすべてを完全に守る人は永遠のいのちを得るというのです。

 

すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」(10:19-20)


なかなかこのように答えられる人はいません。彼はそれほど誠実に律法を守って歩もうとしていたのでしょう。しかしそれでも、律法のすべてを完全に守ることは人間には不可能です。どこまで正しい生き方を追求しても「これで十分に正しい」と思うことはできず、むしろ「自分はダメだ」という思いを抱くようになります。仮に自分で満足しても、神の前で要求される義には到底到達していないのです。

 

なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。(ローマ3:20)

 

人間は自分たちの行いによって救われることはできません。神の前に義と認められるほどに正しい生き方ができる人は一人もいません。

 

イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(10:21)


ここで主は彼を慈しみながら何を仰っているのでしょうか。

 

まず、理解すべきことは、「財産をすべて寄付をすることによって救われる」ということを教えておられるのではないということです。それではやはり行いによる救いです。主は別なことを教えようとしておられます。

 

先ほど、主はモーセの十戒を引用されましたが、よく見るとそれは十戒の後半部分だけです。十戒は前半が神との関係、後半が人間関係に関する戒めです。彼は人間関係の中ではかなり高い水準で立派に生きていましたが、それでも神との関係においては完全ではなかったのです。

 

もっと言えば、真の神以外のものが彼の中で偶像となっていました。彼にとっては、それが「お金」であったことを主は見抜いておられました。そこで、このようなチャレンジをお与えになったのです。

 

私たちの心の中にも、神ご自身よりも大きな位置を占めている何かはないでしょうか。彼のように顔を曇らせて主の前を去るのではなく、「主よ、あなたを真に尊ぶ生き方を私にさせてください」と祈り求めたいと思います。

 

「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」(10:25)

 

 

信仰と所有物

 

「らくだと針の穴」は非常にユニークな表現ですが、誤解をしている人々も多い箇所です。当時、金持ちであることは「神の祝福を受けている証し」でした。弟子たちも主のことばに驚き、「(祝福されている金持ちでさえ救われないなら)それでは、だれが救われることができるのだろうか。」と言いました。主の答えは、「(金持ちであろうと貧乏人であろうと)それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです」というものでした。

 

聖書は金持ちであることを否定したり、物質的に貧しいことが素晴らしいことであると教えてはいません。聖書は金銭を神以上に愛することを問題にしているのです。大切なのは、それが多くても少なくても「与えられているものをどう使うか」です。

 

イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(10:29-31)


ここで「捨てる」と言われているのは無駄にするとか、投げ捨てるという意味ではありません。私たちのいわゆる“所有物”を主イエス様のため、福音のために「差し出す」「主に委ねる」「有効に用いる」という意味です。


このみことばを生活に適用する方法は様々な形があるでしょう。ある人は週に1回、自分の家をバイブルスタディや学びのために解放するという決断をするかもしれません。ある人は、与えられている収入の中からより多くを献金として捧げるようになるかもしれません。ある人は、自分の子どもに対する支配欲を捨て、子どもの人生を主に委ねるという決断をするかもしれません。


そのような生き方をするとき、この地上においても後の世においても私たちは必ず大きな報いを受けます。人には不可能な救いを私たちに与えてくださった神様に応え、与えられているものを捧げ、百倍の喜び、百倍の感謝、百倍の成長、百倍の質のある人生を送りたいと思います。

 

 

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