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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ10章35-52節

マルコ リーダーシップ

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「リーダーになりたい人」と「リーダーにふさわしい人」


主イエス様がご自分の受けられる苦しみについて予告された直後、こんなことが起こります。

 

 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」(10:35)

 

マタイの並行箇所では、ヤコブとヨハネを彼らのお母さんが二人を連れて来たと書かれています。なんだか、行き過ぎた教育ママをイメージしてしまいます。彼らは自己実現のために主を利用しようとしているようにも見えます。彼らの主への頼み事とは何だったのでしょうか。それは、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」というものでした。主ご自身の思いとのギャップにため息が出そうになりますが、よくよく考えるとこれは私たちの姿にも重なります。

 

しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(10:38)


杯とバプテスマは、主がこれから「苦難と死」を意味する表現です。「あなたは、私と同じ十字架の苦しみを受けることができるのですか」と尋ねられたのです。彼らはその意味も分からず、簡単に「できます」と応えました。確かに将来、彼らは主ご自身の歩まれた道にならって迫害と苦難を味わいます。ヤコブは殉教し、ヨハネは迫害のために島流しになります*1。しかし、この時点で彼らの心を占めていたのは「主が私に何をしてくれるか」であり、「私は主に何をお捧げするか」ではありませんでした。地位を求めてはいましたが、真のリーダーになることを求めてはいなかったのです。

 

ここで主は、「御国で栄誉ある地位が与えられるかどうかは、任意に決定されるような性質のものではない」と説明された。そのような地位は獲得するものなのである。御国に入るのは「恵みのゆえに、信仰によって」であるが、御国における地位はキリストに対する忠誠によって決定される、ということを忘れてはならない。(ウィリアム・マクドナルド)


他の十人の弟子たちは、二人に対して「お前らだけ抜け駆けするとはどういうことだ!」と憤ります。これもまた、主ご自身とは大きくかけ離れた心です。彼らの様子をご覧になりながら、主は弟子たちを呼び寄せて弟子訓練を続けられます。

 

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(10:42-45)


この箇所も、前に見た聖書的リーダーシップ論の続きといって良いでしょう。非常に大切なことなので、私たちはこの箇所を正しく理解して適用をしたいと思います。まず主は、聖書的では“ない”リーダーシップについてお話になっています。それは独裁者であり、自ら模範を示すこともせずに人々に命令をするような人物です*2「リーダーになりたがる人」「リーダーになりたい人」と「リーダーにふさわしい人」は違います。聖書的リーダーシップの基本は「仕えること」「しもべとしてのアイデンティティ」にあります。そのような心の態度、自己理解をもって熱心に人々を指導することが求められます。逆に、仕える心があっても、人々を導くことをしないならそれもリーダーではありません*3

 


聞かれる祈り

 

主と弟子たちは、ヨルダン川を渡り、再び西側の地域に戻って来ます。そして、エリコの町を出ようとする時、バルテマイという盲人の物ごいに出会います。彼は、ナザレのイエスが来られたことを聞き、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めました。周りが黙らせようとしても、彼はもっともっと大きな声で叫びました。

 

すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。(10:49-50)


「ダビデの子」とはメシヤの称号です。当時のユダヤ人社会全体が真のメシヤである主イエス様を拒絶している中、彼は「あなたはメシヤです」と告白したのです。私たちも周りがどう考えていようと、誰がなんと言おうと「イエス様、あなたこそ救い主です」と告白する者でありたいと思います。私たちは、周りの人が「ちょっと落ち着け!」と止めにかかるぐらいの情熱や大胆さをもって主に近づくことがあるでしょうか。それとも、可もなく不可もなく、無難な信仰生活を送っているでしょうか。


実は彼が「上着を脱ぎ捨て」と書かれていることには大きな意味があります。この上着は、物ごい専用のものであり、これを着ている人々は正式に人々の憐れみの対象となるというものでした。つまり、彼の生活の糧を得るための唯一の手段だったのです。しかし、彼はまだ癒されてもいないのに、さっさとそれを脱ぎ捨てて主に近づきます。あえて退路を断ち、崖っぷちに立ったのです。彼はそれほどまでに主に期待し、主にかけていました。


彼は「何をしてほしいのか」と尋ねられて、「先生。目が見えるようになることです」と明確に答えます。何を願っているかがはっきりしているのです。それに対して主は「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と仰って癒しを行われ、彼は主の弟子の一人になりました。

 

この出来事には「聞かれる祈り」の原則がちりばめられています。主に対する正しい理解を持つこと、大胆に信仰を告白すること、大胆に期待すること、明確に願うことなどです。私たちもこのように祈り、祈りの力を体験していきたいと思います。

 

 

新約聖書注解 vol.1 マタイ→ヨハネ

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霊的リーダーとなるために

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*1:「そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」(使徒12:1-2)「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」(黙示1:9)

*2:「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(1ペテロ5:3)

*3:ある人々はこの箇所を誤解し、人々を指導することまで放棄して下働きに徹することが良いことだと考える。しかし、もしその人物が指導者として召されているなら、それは間違いである。たとえば、教会の掃除からスリッパ並べまで一人で行っている牧師は本当に「指導者として仕えている」と言えるだろうか。聖書の真理によって人々を養い、整え、彼らを「喜んで奉仕をしたい」という心へと導く必要がある。その人が牧師なら、教会全体が喜んで主に仕える体質になるよう導くことこそが真に仕えることなのである。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり…」(エペソ4:11-12)