柔和な王、しもべとしての入城
この11章からは、舞台がエルサレムに移り、十字架直前の最後の1週間が記録されています。主イエス様の地上でのご生涯は約33年ですが、マルコはその終わりの約3年半、しかも最後の1週間に集中してページを割いています。それほどに重要なことがこの時期に起こったのです。
エルサレムは神殿のある都でもあり、城壁に取り囲まれた軍事要塞でもあったので、この出来事は「エルサレム入城」と呼ばれます。主は、勇ましい軍馬ではなくろばの子に乗ってエルサレムに入られます。これは旧約聖書の預言の成就でした。
シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜り、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ9:9)
ある人々は「ホサナ」*1と叫んで主を歓迎しましが、それはエルサレムの主要な人々ではありませんでした。この出来事についてある説教者は、主が「低さ、弱さ、静けさのうちに来られた」と語っています。人々を煽動して革命を起こし、「我こそが王である!」と方らかに宣言することも出来ましたが、それは神様のご計画ではありませんでした。主は「柔和な王」として、聖書の預言通り粛々と十字架に向かって行かれます。
柔和とは軟弱さとは違います。柔和とは力を持っていながら、それを制御している姿です。私たちは力を持っているとそれを使い、誇示したくなります。しかし、主はあくまで、父なる神のご計画を成就するために行動されました。 主イエス様は常に「しもべ」として、父なる神の御心にお仕えになったのです。
いちじく事件
エルサレム近郊のベタニヤにお泊まりになり、翌朝、興味深い出来事が起こりました。
イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。(11:12b-14)
この出来事を見て、無神論者や懐疑的な人々は「なんという身勝手な行動か」「さすがのイエスも空腹でイラついていたのか」などと非難をします。確かに私たちも理解に苦しみます。しかし、ここには深い意味がありました。
中東のイチジクの木には、葉が生じる前に早生(わせ)の実がなり、その実は食べることができた。早生の実は、ここでいちじくのなる季節の到来を告げ、通常通りの収穫を知らせるものとして記されている。早生の味がないと言うことは、通常の実もならないというしるしだった。イエスがイスラエルの民のところに来られたとき、葉(口先だけの信仰告白)はあったが、神のための実は全くなかった。果たされることのない約束、実質のない信仰告白があった。イエスは、イスラエルの民が実を結ぶことを渇望しておられた。早生の味がなければ、そのイチジクの木(不信仰な民)にはいつまでも実がならないことを主は知っておられた。それで、その木をのろわれたのである。これは、紀元70年にイスラエルの上に下った裁きを前もって表していた。(ウィリアム・マクドナルド)
宮きよめ
さて、主は弟子たちとともに神殿の「異邦人の庭」と呼ばれる場所に足を踏み入れます。そこでは、いけにえとして捧げる動物などが売られていました。いけにえの動物としてふさわしいかどうかには厳密な基準があり、そこでは検査済み商品が高値で販売されていました。また、お金を捧げる際にも、ローマ皇帝の像が刻んである硬貨は偶像に相当するので使用禁止です。そのため、別な硬貨に交換するための両替所がありました。
いずれにせよ、それらは法外な利益をむさぼる「宗教ビジネス」になってしまっていました。主はそこで大暴れをし、神殿で商売をしている人々を追い払われます。
そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(11:17)
現代においても、たとえばアメリカや韓国のメガチャーチの一部が宗教ビジネス化していることを指摘する声があります。また、教会のサイズに関わらず、本来大切にすべきことが脇に置かれ、どうでも良いことが中心を占めてしまうことがあります。教会において、もし、神ご自身が蔑ろにされているなら、それは「神の宮である教会」と呼ばれるべきでしょうか。
内村鑑三はこの箇所の注解で「男性的キリスト教」というタイトルをつけています。信仰者は時に、神のために戦う者であることが求められます。不必要に戦闘的であることは間違いですし、自己防衛のために怒鳴ったり、暴力をふるったりすることは決して許されてはなりません。しかし、神の御名を汚す行為に対しては毅然とした態度を取ることが求められるのです。
*1:アラム語で「我らの主よ、救ってください」という意味。ヘブル語では「ホシーアンナー」。徐々に元々の意味よりも「万歳」といった意味合いで用いられることが多くなっていた。