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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

マルコ15章1-21節

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苦難を忍ばれる主


いよいよ十字架の時が目前に迫っています。ローマ帝国から派遣されたユダヤ総督ポンテオ・ピラトが「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねると、主は「そのとおりです」と答えられました。これは明確な「メシヤ宣言」です。ご自身が、旧約聖書において繰り返し預言されていたメシヤであることを主は宣言しておられるのです。

 

しかし、祭司長をはじめとするユダヤ人の指導者たちはそれを認めることはせず、激しく、厳しく、主を訴えます。しかし、主は黙っておられました。私は、このみことばを思い出します。

 

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:22-24)

 

指導者たちに煽動された群集は、当時の反体制過激派の中心人物であったバラバの釈放を求め、主を十字架に欠けるよう求めて叫びます。そして、ピラトはそれ以上騒ぎが拡大するのを恐れ、群衆の機嫌をとるために十字架刑を言い渡します。ローマ兵たちは主をもてあそび、さんざん痛めつけ、侮辱し、その上で十字架につけるために連れ出しました。私たちはほんの少しでも誤解されたり、バカにされたりすると「カチン!」と来るのに、何の罪もない主はじっとこの屈辱を耐え忍ばれました。

 

…イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び…(ヘブル12:2b)

 

ご自分の前に置かれた喜びとは、父なる神によって復活させられ父の右に着座される喜びであり、さらに、私たちの救いという喜びです。主は、その大いなる喜びを見つめておられたので、屈辱と十字架の苦難を忍ぶことがおできになりました。

 


強いられた恵み

 

そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。(15:21)


通りがかりのクレネ人*1であったシモンという人が、ローマ兵によってむりやりに主の十字架を背負わされます。しかし、その出来事が彼の人生を変えました。


そのことは、この短い箇所からも読み取れます。マルコはわざわざ「アレキサンデルとルポスの父」と語っていますが、これはこの福音書の読者であった初期のクリスチャンたちにとって「アレキサンデル」「ルポス」がある知名度を持つ人々であったことを意味しています*2。おそらくシモン自身は、主の十字架と復活の出来事を目の当たりにしてイエス・キリストに対する信仰へと導かれました※*3※。そして、家族も導かれたのです。


私たちはここから、大きなレッスンを得ることができます。それは、偶然と思えるようなことも、無理矢理に強いられたと思うようなことも、なぜこんな目に遭うのかと思うようなことも、神様の大きなご計画の中で起こっているということです。

 

私たちはその状況の中でも、主イエス様に出会い、主との関係を深めていくことができます。これまでの人生を振り返ってもそのようなことがあったはずです。これからも、そのような神様のご支配を信頼していきたいと思います。

 

※ 明日から当ブログは、しばらく「夏休み」です。いつもお読みくださり、ありがとうございます。

 

 

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*1:クレネは、地中海に面した北アフリカの都市。アレキサンドリアに次ぐ大都市であり、シモンはその地方に離散していたユダヤ人かユダヤ教への改宗者であったと考えられる。

*2:「主にあって選ばれた人ルポスによろしく。また彼と私との母によろしく。」(ローマ16:13)

*3:「さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。」(使徒13:1)ここに出てくる「シメオン」もしくは「ルキオ」が、クレネ人シモンではないかと言われている。