恵みを施したいと願う王
ダビデは驚くべきことを語ります。
ダビデが言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい。」(9:1)
自分を酷い目にあわせたサウルの一族の生き残りを見つけ出して“処罰する”というなら分かるのですが、「恵みを施したい」と彼は言うのです。
あの親友ヨナタンの息子で、足の不自由なメフィボシェテ*1が連れて来られます。ダビデの前にひれ伏して恐れているメフィボシェテに対して、王は何と語りかけたでしょうか。
ダビデは言った。「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」(2サムエル9:7)
実は、この出来事は、主イエス様が私たちに対して与えてくださっている救いの「型」です。本来ならば何の資格もない、いや、むしろ処罰されて当然の私たちに対して、主は「あなたに恵みを施したいのだ」「あなたを私の子として扱うよ」と語りかけてくださるのです。
そのような“もったいない”申し出に、私たちはメフィボシェテのように「このしもべが何者だというので、あなたは、この死んだ犬のような私を顧みてくださるのですか。」(9:8)と申し上げ、ひれ伏すことしかできません。
ダビデは、サウル家の所有であった土地、財産、召使いのすべてをメフィボシェテにすべて返してやります。これは異例中の異例の出来事です。それだけではなく、なんと…
…こうして、メフィボシェテは王の息子たちのひとりのように、王の食卓で食事をすることになった。…メフィボシェテはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足が共になえていた。(9:11b, 13)
私はこの箇所を読む時、涙がこみ上げてきます。祖父であったサウル王が死に、父ヨナタンも失ったメフィボシェテ。ダビデ王に惨い仕打ちをしたサウル一族の末裔として、そして、自分の足では歩く事のできないハンデを抱えながら生きていくことは、どれほど心細く、惨めであったでしょうか。その彼が、王の慈しみ深い招きを受けて、まるで王子のように扱われたとき、どれほど心安らぎ、感謝と喜びで心が満たされたことでしょうか。彼はどれほど深くダビデ王の愛を感じ、王を愛したことでしょうか。
私たちの味わっている「救い」の出来事は、これ以上のことなのです! もし、あなたが今、この恵みを忘れているなら、それを思い出してください。
今日の私たちは、こうした驚くべき事に対してまるで予防接種を受けているかのようである。子とされるという驚くべき現実に免疫ができているかのようだ。私たちはみな神の子であると繰り返し言われてきた。そのため、生まれながらに神が私たちの父であると思い込んでいる。だが、決してそうではない! 私たちは生まれながらに怒りの子である、と聖書は述べている。神は万人の父ではないし、人類みなが兄弟ではない。聖書は、万人が隣人であることは語っている。すべての人が私の隣人である。そして、キリスト者の愛をもって彼らに接するべきである。けれども、すべての人が私の兄弟姉妹ではない。そのような関係は、互いに子とされることによってのみ成立する。他の者たちは、キリストにあって子とされることで神の家族に入れていただく。(R.C.スプロール著『何からの救いなのか』より)
私たちは“あり得ない”恵みによって王の食卓に招かれ、王の息子のように親しく交わりをし、永遠の財産を相続する特権を与えられています! なんと素晴らしいことでしょうか! 恵み深い私たちの王、主イエス様に栄光がありますように!
…キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。(ローマ人への手紙5:2)
見よ。わたし(キリスト)は、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(ヨハネの黙示録3:20)
*1:「さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な子がひとりいた。その子は、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき五歳であった。うばがこの子を抱いて逃げるとき、あまり急いで逃げたので、この子を落とし、そのために足のなえた者になった。この子の名はメフィボシェテといった。」(2サムエル4:4)