道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二サムエル12章

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大きな罪を犯したダビデのもとに、主は預言者ナタンを遣わします。ナタンは、富んでいる人と貧しい人のたとえ話を用いてダビデの罪を責めます。たとえ話の中で、富んでいる人は、貧しい人が我が子のように大切にしている一匹の子羊を非情にも取り上げてしまうのです。この話を聞いてダビデはどう反応したでしょうか。

 

すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」(12:5-6)


ダビデも、私たちも、「一般論」として罪の問題が語られる時には「とんでもない罪だ! それは許せない!」と激怒するのです。しかし、預言者ナタンはダビデの罪を個人的に追求しました。これはダビデをギャフンと言わせて憂さ晴らしをするためなどではなく、命がけの愛を伴った行動でした。

 

ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。」(12:7)


ナタンは、時の最高権力者を目の前にしながら、神の権威を帯びてはっきりと王の罪を指摘します。1節に「主が…遣わされた」とあるように、彼は自分の勝手な判断で動いたのではありません。このようなことは主に遣わされなければできないことです。ナタンは、神がすべてをお見通しであることと罪に対する報いがあることを明確に告げました。私たちも時にナタンのように主に遣わされ、愛をもって誰かの罪を指摘しなければならない場面があります。

 

真実な悔い改め

 

ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」(12:13)


ダビデは隠蔽工作を行おうと思えば、それをすることができる権力を持っていました。目の前のナタンを殺してしまえばすべてを闇に葬り去ることができたかも知れません。しかし、ダビデは「主に対して罪を犯した」ということを悟り、悔い改めました。この時のダビデの祈りが、詩篇51篇です。

 

神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。(詩篇51:1-2)

 

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。(詩篇51:17)

 

心から罪を悔い、「主よ、どうか私を憐れんでください」と祈る心を、主はさげすまれることがないのです。主は、大きな罪を犯した者に対して、憐れみを注ぎ、「あなたの罪は完全に赦された」と語ってくださるお方です。新約聖書を見ると、ダビデの罪の問題については一切言及されていません。彼は王であり、預言者であり、祭司的人物でもあり、メシヤを産み出す家系の父祖として“のみ”登場します。これと同じように、主イエス様の十字架によって私たちの罪は赦され、神様はそれをもはや永遠に思い出されないのです。

 

蒔いた種の刈り取り


しかしながら地上においては、「罪の種を蒔いたならば、その実を刈り取る」という原理が働いていることも忘れてはなりません。バテ・シェバの産んだ子の命は取り上げられてしまいました。永遠における赦しは決して取り消されないものですが、だからといって神を侮って安易に罪を犯すことは絶対に避けなければなりません。

 

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ6:7-8)

 

 

このような問題をどう扱うか

 

非常に残念なことですが、牧師・宣教師などのクリスチャン指導者、また、信徒の中にも、ダビデのようにスキャンダラスな罪を犯してしまう人々がいます。国内外の著名な説教者、伝道者が、異性問題、金銭問題、権威の濫用などによって失脚するニュースも少なくありません。「信仰者は罪とは無縁です」と言えたならどれほど幸いかと思いますが、残念ながらそうではありません。これらの問題についてどう理解すべきか、いくつか列挙してみたいと思います。


①他人事だと思わない


私たちは他者を指差して糾弾する前にすべきことがあります。私たち自身、どれほど主に対して忠実に清く生きているでしょうか。罪の種類や当事者の立場によって「罪の影響力の大小」があることは明白です。しかし、義である神の目から見て「罪そのものの大小」はないのです。ですから、ナタンの語った「あなたがその男です」という言葉を自分自身にも向けられたものとして受け止め、自分の持っている罪を主の御前に悔い改めたいと思います。

  

②最大限慎重に事実を確認する

 

噂話を小耳に挟んだというレベルで、決めつけをすることは避けなければなりません。「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」(箴言18:17)とあるように、どちらか一方の話だけを聞いて性急に判断することも危険なことです。すべての真実を神ご自身のように知ることは不可能ですが、慎重さが求められます。

 

③罪を犯した人物が悔い改めに導かれるよう祈る


問題が事実であるならば、主ご自身がその人物の霊を導き、単なる反省や後悔ではなく罪に対する深い悲しみへと導いてくださるよう祈りましょう。真実な悔い改めがなされるならば、主は赦しを与え、その人を主のもとに立ち返らせてくださいます。

 

④罪により痛みを負った人々の回復を祈る

 

その罪によって直接に害を受けたり、また、その出来事を知って心に痛手を受けた人々のために祈りましょう。彼らが正しくそのことを受け止めることができるように、心が癒され、物理的な被害があるならばそこにも主の助けが与えられるように祈りたいと思います。

 

⑤蒔いた種の刈り取りをしっかりと見守る


悔い改めた者に対して主が「赦し」を与えてくださることを認めつつも、地上においての「許し」は慎重になされるべきです。蒔いた種の刈り取りはなされるべきです。仮にその人物にどんな能力があっても、どんな大きな実績があっても、罪の傾向や弱さが一夜にして解決する訳ではありません。安易に信用することはその人物のためにもならないのです。

 

たとえば、不祥事で失職した牧師が比較的短い期間で復帰したというニュースを聞くことがありますが、これは厳に戒められるべきだと考えます。「罪を犯したダビデも、王として用いられ続けたではないか」と言う人々もいるのですが、旧約時代の王と、教会時代の牧会者に求められる倫理基準は全く別です*1

 

牧師や伝道者だけでなく信徒についても、その人物が影響力の大きな罪を犯してしまった場合、同じような基準で取り扱うことが望ましいでしょう。役員、執事、小グループのリーダー、対外的な奉仕などで用いられることは、少なくとも相当な期間、制限される必要があるでしょう*2。主の十字架による完全な赦しを信じつつも、その人物の教会における役割や自由に制限を設けることは、その人物と教会と神に対する聖書的な「愛」の表現であると信じます。

 

⑥サタンの攻撃から守られるよう祈る


スキャンダルにどう対処するかを書いてきましたが、一番望ましいのはそのようなことが起こらないことです。そのために祈りましょう。サタンは特に、影響力のある人物に影響力の大きい罪を犯させようと誘惑します。その方が、“効果的”に神の御名を汚すことができるからです。お互いが常にサタンの攻撃、誘惑から守られるよう祈りましょう。特に、自分の属する教会、また、キリスト教界の指導者たちが守られるように祈りに覚えていただきたいと思います。

 

  

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*1:「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり…」(1テモテ3:2), 「…その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。」(テトス1:6)

*2:「執事は、ひとりの妻の夫であって、子どもと家庭をよく治める人でなければなりません。」(1テモテ3:12)