道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二サムエル19章

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ダビデが息子アブシャロムの死を悲しみ、泣きながら喪に服しているという知らせを聞いて民は嘆きました。謀反を起こした張本人を打ち倒してせっかく勝利したはずなのに、どうして王は喜んでくれないのかと思ったのです。そして、ヨアブ将軍は民を代表してダビデにクレームを伝えます。

 

王に対する不平不満

ヨアブは「王様、あなたのせいで家来たちみんなが恥をかきました。あなたは私たちが全滅して、アブシャロムが生きていた方が良いと思っているのですね。今すぐ外に出て家来たちに申し開きをしないなら、今夜にも全ての者たちがあなたから離れて行きます。」と、半ば脅しともとれる言葉を語りました。ダビデはやむを得ずそれに従い、家来たちの前で釈明をしたようです。

 

この章では、ダビデ王と民との関係を見ながら、王の王である神様と私たちとの関係を考えてみたいと思います。王の悲しみを全く理解せず、自分たちの手柄や功績を認めてほしいと願う民、そして、王を責め立て、王が自分たちの意に添ってくれないなら私たちは離れて行きますという態度…。

 

本来、私たちは神ご自身のお気持ちを知ろうと努め、自分たちの功績など何もないことを神のみ前で認めなければなりません。王の王である神にお仕えし、神のために戦えることそのものが幸いではないでしょうか。私たちは「なにがなんでもあなたについて行きます」と告白する者でありたいと思うのです。

 


王の与える憐れみ


さて、アブシャロムの側についたイスラエル人たちは、ダビデ軍の勝利を受けてそれぞれの場所に逃げ帰っていました。彼らは自分たちの指導者を失って戸惑っていました。特にユダ族はダビデの身内でありながら彼を裏切ったので“どの面をさげて”ダビデに会えば良いのか分からずに右往左往していました。しかし、ダビデはこのような言葉を送ります。

 

「…あなたがたは、なぜ王をその王宮に連れ戻すのをためらっているのか。あなたがたは、私の兄弟、私の骨肉だ。それなのに、なぜ王を連れ戻すのをためらっているのか。」(19:11-12)


なんという憐れみ深い言葉でしょうか。それだけではありません。王は、王を裏切ってアブシャロムの将軍となったアマサに対してもこのようなメッセージを送ります。

 

「あなたは、私の骨肉ではないか。もしあなたが、ヨアブに代わってこれからいつまでも、私の将軍にならないなら、神がこの私を幾重にも罰せられるように。」(19:13)

 

なんと、反逆者の一人であったアマサが将軍に召し抱えられるというのです。

 

こうしてダビデは、すべてのユダの人々を、あたかもひとりの人の心のように自分になびかせた。ユダの人々は王のもとに人をやって、「あなたも、あなたの家来たちもみな、お帰りください」と言った。(19:14)

 

私たちも王である神の深い憐れみに心触れられるとき、それぞれの心がまるで“ひとりの人の心のように”一致し、王を喜んでお迎えする姿勢へと変えられます。


逃亡先からエルサレムに戻ろうとするダビデを、ゲラの子シムイ、サウル家のしもべツィバが迎えました。シムイはダビデを呪った人物、ツィバは嘘をついてサウル家の財産を我がものにしようとした人物です。そのような者たちにすら、ダビデは深い憐れみを示しました。

 

私たちはこの箇所を読むと「ダビデ王は甘いのではないか?」と思ってしまいます。しかし、福音書に記されている主イエス様の姿を思い出してください。三度も主を知らないといったペテロも赦されました。教会の迫害者であったパウロも憐れみを受けました。そして、私たち自身も計り知れないほどの憐れみを受けている者なのです。

 


何よりも王を慕う者

サウルの孫メフィボシェテは、王を迎えに下って来た。彼は、王が出て行った日から無事に帰って来た日まで、自分の足の手入れもせず、ひげもそらず、着物も洗っていなかった。(19:24)


あのダビデの親友の子メフィボシェテはダビデ王の逃亡を深く悲しんでいました。また、しもべツィバの裏切りによって、身の周りを世話する者たちもいなくなってしまったのでしょうか、彼は本当に惨めな姿をしていました。ある注解者は、このメフィボシェテの風貌は、王に再開するまでは他の誰とも会わないと決意していたことの表れであろうと推測しています。それも大いに可能性があります。

 

しかし、王は、まだ事の真相を知らないので「メフィボシェテよ。あなたはなぜ、私といっしょに来なかったのか」と詰問します。


メフィボシェテはツィバの裏切りを告げますが、しかし、同時に「あなたのお気に召すようにしてください。我が一族はみな死刑にふさわしかったのに、あなたは私を我が子のように扱ってくださいました。私には何の文句もありません」と語ります。

 

それでも王は重ねて彼を試すように「弁解するな。ツィバと地所を分け合え」と厳しい言葉を語りますが、メフイボシェテはそこで驚くべき返答をします。

 

「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼(ツィバ)が全部でも取ってよいのです。」(19:30)


メフィボシェテのダビデ王に対する感謝と忠誠は本物でした。彼は「あなたさえおられればそれで十分です。私は何もいりません。私が慕うのはあなただけです」と言うのです。私たちもそのように主を慕う心を持って、王の王である主がこの地上に帰ってこられるのを迎えたいと思うのです。パウロの語ったこの言葉を思い出します。

 

私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:8)

 

 

王に捧げる者


多くの者たちが、王に認められて褒美をもらうことを期待していました。しかし、ギルアデ人バルジライは、ダビデ王が逃亡生活をしていた時、自分自身の富をもって王を惜しみなくサポートしました。王が彼に恩返しをしようとした時も、彼はそれを辞退し、若い世代に権利を譲ります。バルジライは「受けるよりも与えるほうが幸い」という真理を知り、実践する人物でした。

 


王からの恵みを当然の権利と考える者

 

イスラエル民族は、十二の部族から成っていますが、徐々に分裂の傾向を帯びて来ます。北部に住む人々は、ダビデに対して「どうして、南部のユダ族を優遇するのか」と文句を言います。ユダ族は「王は俺たちの身内だぞ」と反論をします。その他の者たちは「俺たちの方が王に対して貸しがある」と再反論をします。なんという高慢でしょうか。本来ならば、ほとんどの者たちが裏切り者として裁きを受けなければならなかったはずです。


私たちクリスチャンはどうでしょうか。神の恵みと憐れみ、救いを当然と考えるなら、私たちはとんでもない思い違いをして誤った行動をとってしまいます。王の王であるお方との交わりに入れられた特権を当たり前の権利と思うとき、同じクリスチャン同士で優劣を争ったり、派閥を作って分裂をもたらしたりすることになるのです。


パウロは分裂寸前のコリント教会にこのように書き送りました。私たちもこのみことばを大切に心に留めましょう。

 

神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。 さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。(1コリント1:9-10)

 

 


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