道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二サムエル24章

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同じ出来事を別の視点で見ると…

 

さて、再び主の怒りが、イスラエルに向かって燃え上がった。は「さあ、イスラエルとユダの人口を数えよ」と言って、ダビデを動かして彼らに向かわせた。(24:1)

 

第一歴代誌には、この出来事の並行記事があります。しかし、この二つの箇所の「主語」が違うので私たちは混乱してしまいます。

 

ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。(1歴代誌21: 1)

 

ある人々はこのような箇所を読んで「聖書は矛盾したことを言っている。だから聖書は信用できない」などと言います。しかし、ある出来事を人間側から見た場合と神の側から見た場合では全く異った見解になることは少なくありません。そして、聖書がその両方の見方を記していることは珍しくないことなのです。


ダビデの罪は、サタンの誘惑をきっかけに自分自身の決断によって為したものでした*1。しかし、その背後には、神ご自身が何らかの理由でダビデに対して怒りを燃やされたという事実がありました。そして、神ご自身は、サタンがダビデに働きかけるのを許容されましたし、ダビデの誤った決断をも許容されました。


少しレベルの低いたとえかも知れませんが、たとえば、公園で遊んでいる小さな自分の子どもにいじめっ子が近づいて来たのを見ている親の心境を想像してみると良いかもしれません。子どもがいじめられることも、また、応戦して喧嘩になることも、それ自体は親の願いではありません。「子どもが成長してくれるように」という願いと愛に基づいて、いじめっ子が近づいて来ても介入せずに見守り、子どもが挑発にのってもすぐには介入せずギリギリまで見守ることをするかも知れません。子どもには、“痛い目”を見て成長した方が良い場合もあります*2。私たち信仰者も同じです。

 

心が問題

 

さて、それにしても、人口を数えることが重大な罪になるのでしょうか。いええ、別になりません。神は別の状況ににおいては人口調査を命じておられますし、新約聖書において主イエス様も、戦いの前に兵力を数えるのは常識だということを語っておられます。もう一度、この24章1節を注意深く読んでみましょう。神がお怒りになったのは、人口調査をする前でしょうか、それとも後でしょうか。


神は人口調査の前から怒っておられました。はっきりと記されてはいませんが、ダビデはそれ以前から何らかの罪に陥り、いつの間にか誤った道を歩んでいたことが推測されます。人口調査が問題だったというよりも、そこに至る彼の心、態度、生活に罪があったのです。それは晩年を迎えて「自分の業績を見える形で歴史に刻みたい」という名誉欲だったかも知れません。軍事力、財力など、目に見えるものに頼ろうとした不信仰の罪であったかも知れません。私たちが「何をするか」という表面的なことよりも、神ご自身は私たちが「どんな心でそれをするか」をご覧になられるのです。

 

 悔い改めと信仰の復興


王に命じられたヨアブは違和感を覚えつつも王に説き伏せられ、十ヶ月近くも国中を回って人口調査をします。しかし、その調査が終わるのとほぼ同時に…

 

ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」(24:10)


ダビデも素晴らしいところは、罪を示されたならそれをはっきりと主の前で悔い改めるということです。これは、「ああ、やってしまった」という単なる後悔とは違います。私たちがそのような後悔に留まるなら、いつまでも心のモヤモヤは晴れず、新しいスタートを切ることはできません。「主よ、私は◯◯の罪を犯しました。どうかお赦しください」とはっきり告白し、赦しの恵みを受け取りたいと思います。この告白を心からなすものは、決して見捨てられることはなく、その罪ゆえに裁かれることはありません。

 

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)

 

しかしそれでも、バテ・シェバ事件の時と同じように罪の刈り取りがなされます。これは罪に対する「裁き」というよりも、罪の「影響」と考えるべきものです。実に七万人もの人々が疫病にかかりました。王の罪の影響が国民に降り掛かったのです。だから私たちは「赦されるから罪を犯して良い」と安易に考えてはなりません。罪の影響は自分だけのことではなく、周りに痛みや苦しみをもたらすことがあるのです。


ダビデは自分の罪の影響で苦しんでいる民を見て、こう祈ります。

 

「罪を犯したのは、この私です。私が悪いことをしたのです。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。」(24:17)


この祈りは、主なる神の御心に適ったようです。神は、預言者ガドを通してダビデを「アラウナの打ち場(脱穀場)」へと導かれ、彼はそこで礼拝を捧げました。その礼拝は形式的・表面的なものではなく、犠牲の伴った、心からのものでした。

 

 

こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。(24:25)


誘惑されて罪に陥っていたダビデが、再び信仰の復興を経験しています。彼は国民全体を祈りと礼拝に導き、今度は罪ではなく信仰的な影響を全国に広げたのです。やがて、このアラウナの打ち場に、ダビデの息子ソロモンがエルサレム神殿を建てることになります。悔い改めと信仰の復興が、目に見える神殿という建物の前にあったことを覚えたいと思います。今、私たちはサムエル記を読み終えようとしていますが、あの預言者サムエルがダビデを王に召した時に神からいただいたことばを思い起こしたいと思います。

 

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)

 

 

 

*1:だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。(ヤコブの手紙1:13-14)

*2:すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)

 


わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。。神の私たちに対する願い、御心、愛は、無限の深さ、広さ、豊かさを持っているので、私たちには計り知れません。物事を表面的に見て、私たちが神を裁いてはならないのです。(黙示録3:19)