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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ5章1-26節

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信仰のパターン

ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)の漁師であったシモンが、主の弟子として召される箇所です。ここには、福音書の中で繰り返され、私たちの信仰の生涯においても繰り返される一つのパターンが記されています。 

  1. 深みへ漕ぎ出せ(みことばのチャレンジ)
  2. でも、おことばどおり(自分の考えではなく御心に従う決断)
  3. そのとおりにする(決断を実行に移す)
  4. 網はやぶれそうに(驚くべき御業)
  5. ひれ伏して(心からの礼拝)
  6. 離れてください(罪認識の深まり)
  7. こわがらなくて良い(恵みの宣言)
  8. 人間をとる漁師に(使命が与えられる)
  9. 何もかも捨てて(従順、献身)

 

魚が一匹もとれずに落ち込むシモン・ペテロに対して主がみことばを語られたことから、このパターンは始まりました。今日も同じように主は「深みに漕ぎ出しなさい」と私たちに語りかけてくださっています。


癒し主


ツァラアトは、ある日本語聖書では「らい病」「重い皮膚病」と訳されていましたが、聖書全体を注意深く読むと、必ずしも皮膚だけではなく家の壁や衣服などにも現れる現象であることが分かります。新改訳聖書第三版のあとがきには「それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではありません。しかし、それは『何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態』を描写しています。」とあります。


いずれにせよ、ツァラアトに侵された人は、肉体的、精神的に大きな苦痛を覚え、社会的にも人々から排除され、霊的にも汚れた存在と見なされていました。

 

さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。(5:12-13)


彼はひれ伏して懇願しました。そこには、主イエス様が治そうと思われたなら必ずその通りになるという信頼がありました。主はその懇願・信頼に応えて癒しを行い、その後、彼に祭司のところに行って自分を見せ、供え物をするように命じられました。それは、肉体的癒しだけではなく、彼が社会的にも霊的にも回復をすることができるようにとお考えになったらかです。


この後、中風の人の癒しについても記録されています。脳の出血から身体が不自由になった人を、友人たちが床に乗せたまま運んで来るのです。しかも、家が込み合っているのを見ると、木の枝や泥などで造られた屋根をはがし、宙づりにして主イエス様の前に病いに苦しむ友を差し出したのです。

 

彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。(5:20)


主は「彼らの信仰」をご覧になり、赦しの宣言をしてくださいました。癒された中風の人にも信仰があったでしょうが、しかし、彼を連れて来た友人たちにも信仰がありました。友人を主へと導く信仰はなんと素晴らしいものでしょうか。また、友人によって信仰が励まされて、主に近づけられることもなんと幸いなことでしょうか。

 

私たちも身近な友(たとえば信仰の弱っている教会の仲間、まだ主を知らない同僚など)を主イエス様のもとへと運ぶことにチャレンジしたいと思います。また同時に、自分の弱さや悩みを信仰の友に分かち合い、「私のために祈ってほしい」と求めることも良いでしょう。

 

“よく”荒野に退いて…


主のこれらの働きを支えていたのは「これ」です。

 

しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。(5:16)


ルカの福音書は、主イエス様の「人」としての側面を強調し、主がいつも祈っておられたことを繰り返し語ります。時々、たまに、思い出した時に祈られたのではないのです。これだけの膨大なお働きをなさりながら、その合間に“よく” “頻繁”に荒野に退いて祈るなんて…スゴいと思います。

 

しかし、よく考えると、このように敢えて頻繁に荒野に退いて祈ることをなさったからこそ、主はこれだけのお働きをなさることができたのではないでしょうか。

 

 

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