道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ5章27節-6章5節

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主のための宴会を開く


当時の取税人は、ローマ帝国やガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスの手先になって人々から高い税金をむしり取り、しかも、余計に取り立てた分を自分のふところに収めていました。

 

彼らは確かに裕福でしたが、すべての人から軽蔑されていた存在です。その取税人の一人であったレビ(別名マタイ)は、主イエス様に目を留めていただき、「わたしについて来なさい」という言葉をかけられ、どれほど大きな衝撃を受けたことでしょうか。

 

するとレビは、何もかも捨て立ち上がってイエスに従った。(5:28)


彼は迷うことなく弟子となりました。「お申し出は嬉しいのですが、時給はいくらですか? 週休何日ですか?」などとは尋ねませんでした。主の恵みに出会い、それに強く捉えられるとき、私たちは「イエス様が “主” で自分は “従”」というシンプルな関係を生きるようになります。そして、それこそが真の幸い、健やかな生き方なのです。

 

「立ち上がって」という言葉は、病を癒された人々が立ち上がるときや復活を表す場合に用いられる表現で「健やかさ」「命にあふれる様子」を指し示しています。

 

そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。(5:29)


ここで用いられている「大ぶるまい」という言葉は、この箇所にしか登場しない表現です。これは、主イエス様に対するレビの礼拝の表現、献身の表現といっても良いでしょう。ある人は28節に「何もかも捨て」と書かれているのにどうして家があり、大ぶるまいをするお金があったのかと疑問に思うかも知れません。しかし、全てを捨てて弟子となるというのは、全てをゴミ箱に入れて苦行僧になるということではありません。持っている全てのものを主を喜ばせるために用いるということです。


この時のレビは「もったいない。でも、頑張って捧げなければいけないのだ」と考えながら苦痛に顔を歪めていたでしょうか。私の心には、救いの喜びに溢れた笑顔で宴会の席についているレビの表情が思い浮かびます。

 

主の恵みに捉えられ、それに応答する礼拝、奉仕、献身は本来、それをしている本人にも喜びがあるがあるものです。もちろん時には犠牲や痛みも伴いますが、しかし、恵みに捉えられている人は、「奉仕できて嬉しい」「捧げることは当然です」と笑顔で言うのです。そして、彼らは、自分たちの味わっている恵みへと周りの人を招待していくのです。


教会は、レビの開いた「主のための宴会」のようなものです。救われるはずのない者が主に目を留めていただき、罪赦され、弟子とされました。その恵みに感動し、感謝し、私たちは喜んで自分自身の持っているものを主のために捧げ、まだ主に出会っていない人々をこの喜びへと招くために働きかけるのです。

 

律法主義と行いの不調和・恵みと行いの調和


さて、主が取税人や売春婦などに憐れみ深い関わりをしておられるのを見て、パリサイ人たちがつぶやきます。主はお答えになりました。

 

そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(5:31-32)


霊的な意味で、もともと丈夫で健康な人は一人もいないはずなのですが、多くの人々が「医者など必要ない」と考えます。主イエス様は「私は正しい」「自分は大丈夫だ」と思っているパリサイ人ではなく、まず、「自分には救いが必要だ」と自覚している人々に手をさしのべられました。私たちはただ主の恵みに感謝し、畏れと喜びとをもって主の食卓につかせていただけば良いのです。


ところが、パリサイ人たちは、ヨハネの弟子や自分たちが行っている断食を引き合いに出し、「あなたたちは宴会などしてけしからん」とケチをつけるのです。主は、ご自身を花婿にたとえて、花婿に付き添う友人が婚宴で断食するのはおかしいとお話になります。6章冒頭の安息日論争でもそうですが、パリサイ人たちの焦点は「人間の行い」でした。しかし、主は「主とともにいること(を喜ぶ)」ことを教えられたのです。

 

イエスはまた一つのたとえを彼らに話された。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。(5:36-37)


新しい布は古い着物では伸縮率が違うため、洗った時に問題が生じます。また、新しいぶどう酒はまだ発酵が続いているため、ガスが発生します。弾力のない古い革袋は破裂してしまいます。主はここで「合わないこと」「ミスマッチ」についてお話になっておられます*1。何と何が合わないのでしょうか。それは、神に認められるためには〜〜しなければならないというパリサイ人の「律法主義」とキリストにある「新しい生き方」とが決して合わないということです。


クリスチャンになると、私たちはそれまでの人生になかった「礼拝」「祈り」「ディボーション」「奉仕」「献金」などなどを新しく始めます。それらはひとつひとつ意味深く、素晴らしいものなのですが、それを「神に認められるためにしなければならない」と考えて行おうとし続けるなら、そこには何らかの不具合が生じて来るのです。疲れを覚えたり、否定的な思いが湧いて来たり…。

 

それらの「新しい行動」は本来、律法主義を動機にするのではなく「恵み」「主と共にいる喜び」を動機に行われるものです。「こんな私を主は選び、救い、共に歩んでくださっている!なんてもったいない恵みなんだろう!なんて気前のよい、憐れみ深い神様なんだろう!」という感謝、感動、喜びの心を革袋にして、その中に、礼拝や奉仕などのクリスチャン生活を入れるならば、そこには調和が生まれます。そして、私たちのクリスチャン生活というぶどう酒は熟成され、美味しいものになっていくでしょう。

 

 


Chris Tomlin - Amazing Grace (My Chains Are ...

 

*1:原語では「スンフォーネオー」という “シンフォニー” の語源となる言葉が用いられている。つまり、ここでは「交響曲を奏でているような調和」が “ない” 状態を主は語っておられる。