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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ6章6-26節

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何に注目するのか

6章のはじめから、ルカは「安息日」に焦点を合わせています。1-5節は、弟子たちが安息日に麦畑で穂を摘んだことについての論争でした。パリサイ人たちは、安息日の本質である主ご自身との交わりを忘れ、その日は絶対に労働をしないという「規則」をひたすら守ることにこだわっていました。

 

彼らは安息日に関して、細かい規定を39も作り、さらにそれら一つ一つについて39ずつの細則を作りました。「39×39」は、なんと1500以上です! 彼らは、長い距離を歩くことも、荷物を運ぶことも、赤ちゃんを抱っこすることも、麦を摘むことも、癒しを行うことも「安息日に労働をするとはけしからん!」と問題視したのです。

 

別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに、右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。(6:6-8)


彼らは何のためにそこにいたのでしょうか。何のために主をじっと見ていたのでしょうか。彼らの目は何のためについていたのでしょうか。彼らの霊の目は残念ながら閉ざされていました。

 

美しい花が飾られているのを見ても、「こんなところに金をかけてもったいない。どうせ枯れるのに」と文句を言う人がいます。テキパキ動く人を見て「せっかち。落ち着きがない」と言い、冷静沈着な人を見ては「何を考えてるか分からない。冷たい」と言う…。あら探しや批判のために誰かに注目するなら、欠点や問題のない人はないでしょう。しかし、願わくは、私たちの目がいつも「主の恵み」「主の栄光」に注目するものでありますように。

 

のぞみも消えゆくまでに 世の嵐に悩む時
数えてみよ主のめぐみ なが心は安きをえん
数えよ主のめぐみ 数えよ主のめぐみ
数えよひとつずつ 数えてみよ主のめぐみ
(聖歌604)

 

何を話し合うのか

主ご自身は、霊の目をもってパリサイ人たちの内面を見抜き、手の不自由な人の癒しを注目の中で堂々と行われました。さらに「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」という本質的な問いをなさいました。

 

すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。(6:11)

 

熱心に話し合いがなされています。しかし、それは主イエスに対する憎しみ、怒りを動機とした話し合いでした。ここ1週間を振り返ってみましょう。私たちはどんなことを人と話し合っているでしょうか。噂話、陰口、愚痴などの否定的な会話をすることもできます。

 

しかし、お互いの霊を強め、心を引き上げるような会話をすることもできます。ここに記されている人々を反面教師にして、「どうやって主イエスに仕えようか」「どのように主を喜ばせようか」と話し合う者でありたいと思います。

 

ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。(1テサロニケ5:11)


主イエスと十二弟子

十二弟子を選ぶ前夜、主はあることをなさいました。

 

このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(6:12)

 

重大な決断をするとき、私たちは祈る必要があります。「祈り込む」「祈り抜く」必要があると言っても良いでしょう。主は、祈りに基づいて選んだ弟子たちを任命し、彼らを見つめながらメッセージを語られます。

 

人の子(主イエス様)のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。(6:22)

 

それは、この世とは「」といっても良い「神の国の価値観」でした。ある人は、神の国を「逆さまの王国」と呼びました。この箇所を注意深く読みながら、私たちの主の弟子としてこの価値観の中に生きることを求めていきたいと思います。

 

 

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