ルカ6章27-49節
究極の生き方
「あなたの敵を愛せ」「あなたを憎む者に善を行え」「頬を打つ者にはもう一方の頬を差し出せ」「返してもらうことを考えずに貸せ」などなど、実に16もの命令がなされています。地上において、これらの命令通りの生き方をなさったのは主イエス様ご自身だけでしょう。私たちは主の生涯とはあまりにもかけ離れた「究極の生き方」をしています。
しかし、これらの命令はただ単に崇高な道徳や綺麗ごとを語っているのではなく、私たちに意味のない苦行を勧めているのもありません。単にお人好しな、サンドバックのようにやられっ放しの敗北者としての生き方を教えているのでもありません。
一つ一つの命令の真の意味は、聖書全体と照らし合わせて注意深く理解する必要がありますが、いずれにせよ、これらの命令は「約束」を伴っています。主は「そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしい」「そうすれば、あなたは罪に定められず、赦される」「そうすれば、あなたは与えられる」と仰るのです。
キリストに似た者へと変えられ、キリストのように生きることが人間本来の生き方であり、真の意味での幸いなのです。しかし、“こんな”私たちが、どうやってそのように生きることができるのでしょうか…。主は、そのことが人間の力や知恵では不可能であることを教えるためにこう語られました。
「いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。」(6:39)
霊的盲人である私たちが、その私たち自身を手引きしても穴に落ちるだけです。また、成功者、有識者、知者、賢者と言われる人々も、所詮は人間に過ぎません。彼らに盲目的について行っても、必ず穴に落ちます。
私たちは慎重に「師」を選んで弟子入りする必要があります。いや、幸いなことに、最高の師が「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだ」と仰ってくださるのです。
弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。(6:40)
「十分訓練を受けた」ということばは、「完全にする」「本来の姿にする」などの意味を持つ表現です。せっかく弟子として選ばれたのですから、もっともっと「師」に心を委ね、身を委ねたいと思うのです。このお方のことばに耳を傾け、注意深く学び続け、下手でも不器用でも良いからみことばに従うことに励み続ける者は、必ず変えられていきます。
確かに時間がかかるかもしれませんし、面倒くさいプロセスも通らなければならないでしょう。しかし、その人は着実に完全な姿、本来の姿に近づいていき、次のみことばで言われているような人物になっていきます。
わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。(6:47-48)