道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ7章1-17節

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主が再びカペナウムの町に入られると、ある百人隊長から主のもとに使いの人々が来ました。彼のしもべがひん死の重病で苦しんでおり、主イエス様のうわさを聞いて助けを求めてきたのです。

 

ローマ人であった百人隊長ですが、彼には信仰が与えられていました。彼はこの後、主から「りっぱな信仰」(great faith)というお褒めの言葉を受けました。一体、どのようなところが「りっぱ」なのでしょうか。 


りっぱな信仰は、愛を生み出す


りっぱな信仰の表れの一つは、彼が愛の人であったことです。重病の「しもべ」(2節)ですが、実は「奴隷」を指す言葉が用いられています。百人隊長から見れば、当時の奴隷などは人というよりも「物」のような扱いを受け、病気や怪我を負うならば使い捨てにされるのが普通の存在でした。しかし、彼はこの奴隷を「しもべ」(7節)と呼びます。この言葉は先ほどの表現とは違い、新改訳聖書の欄外注にもあるように「子」を意味します。彼は身分や立場を越えて、このしもべを我が子のように大切に重んじていたのです。

 

 

りっぱな信仰は、バランスの良い評価を生み出す

彼はユダヤ人たちを大切に扱い、人々の支持を得ていました。ですから、プライドの高いユダヤ人の長老たちも彼に協力をし、主イエス様を呼びにやって来たのです。

 

イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」(7:4-5)


百人隊長は周りから「資格有り」と認められていました。しかし、自分ではそう思っていなかったようです。主が要請に応えて彼の家に向かわれ、間もなく到着されるという時に、彼は再び使いを送って次のように伝えるのです。

 

「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」(7:6b-7a)


彼は自分では「資格がない」と思っていたようです。自分で招いておいて「おいでくださいませんように」とは失礼な話だと思うのですが、ここには彼の「畏れ」が表れています。基本的にユダヤ人は異邦人の家を訪ねることはしません。偉大な預言者、いや、神である主ご自身が、誰かの家を訪ねることは異常事態です。主イエス様が徐々に近づいて来られることを感じ、彼は自分がなんと大それたお願いをしてしまったかと畏れを抱いたのでしょう。


りっぱな信仰は、バランスの良い評価を生み出します。つまりそれは、周りからは「資格有り」と高く評価され、自分では謙遜に「資格無し」と思う…というようなバランスです、反対に、歪んだ信仰・不信仰は、周りからは「資格無し」と見なされているのに、自分では高慢にも「十分に資格有りだ!」と思っている…というアンバランスを生み出します。


りっぱな信仰は、みことばへの信頼に基づく

彼は使いの人々にこのような願いを託しました。

 

ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」(7:7b-8)


彼は、主のひと言の重さ、その権威を信頼していました。みことばの力に全面的に寄りかかっていたのです。主はその信仰を「りっぱな信仰」と呼ばれ、イスラエルの中にも見たことがないと評価されました。

 

さて、私たちにはそのような「りっぱな信仰」はあるでしょうか。私たちは「いええ、私にはそんなりっぱな信仰はありません。りっぱな信仰を持つことなど私には不可能です」と答えたくなります。しかし、よく考えてみましょう。「りっぱでない、ほどほどの信仰」「小さな信仰」ならば、私たちの“自力”で持つことが可能だ…ということでしょうか…。そもそも信仰というものは、私たちが自分の能力や努力で勝ち取ったものだったでしょうか…。

 

いいえ、決してそうではありません。私たちが主イエス様を救い主として信じ、主と告白したこと自体、そもそも「あり得ない」「不可能な」出来事でした。聖書は、信仰が100%恵みによって授けられたことを語ります。そして、信仰は同じ恵みによって「りっぱな信仰」へと育てられていくことができると語っています。そのことを真っすぐに信頼し、希望をもって歩むことができますように。

 

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8-10)

 

ナインのやもめとひとり息子

ナインという町では、長い間やもめであった女性のひとり息子が死んでしまい、葬儀が行われるところでした。

 

主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。(7:13)


「かわいそうに思う」という言葉は、「はらわたが揺さぶられる」という表現で、神ご自身の深い愛と憐れみを示すものです。そのような愛と憐れみをもって、主は「泣くな」とおっしゃいます。神のみことばはしばしば、私たちが無理だと思うことを指示します。こんなに悲しく、こんなに心傷んでいるのに「泣かなくてもよい」とはどういうことですか…と私たちは反論したくなります。

 

そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。(7:14)


主は葬列を止めて*1再び無理をおっしゃいます。死人に対して「起きなさい」とはいくらなんでも…。しかし、どうなったでしょうか。このひとり息子は起き上がり、元気になって母のもとに戻ったのです。


みことばは私たちの考えを越えたことを語ります。私たちが「せずにはいられない」と思うことを「やめろ」と言ったり、私たちが「できない」と思うことを「しなさい」と言ったり…。しかし、そのみことばには、いつも私たちに対する深い憐れみが伴っていること、そして、みことばは必ず実現する力を帯びているということを、私たちは大切に覚えたいと思います。

 

 

*1:当時、葬列の妨害をすることは重大な不敬行為と見なされていた。主がどれほど強い思いをもってこのことをなさったかが伝わって来る。