さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。(7:36)
このパリサイ人の動機は、真の意味で主と交わりを持ちたいという願いではありませんでした。そのことは後になって分かります。
罪深い女のささげた礼拝
ひとりの罪深い女、すなわち「売春婦」「娼婦」と主との出会いが記録されています。これとよく似た出来事がマタイ26章などに記されていますが、この箇所とは区別して読むべきです*1。この出来事は、ルカの福音書にのみ記されているエピソードです。
彼女が主に対してとった行動は、まさに「礼拝」そのものでした。私たちは彼女の姿から多くを学ぶことができます。彼女の礼拝は人目をはばからない大胆なものでした。また、涙の伴う心からのものでした。自分の大切な持ち物を捧げる犠牲的礼拝でもありました。足や履物に触れることは本来奴隷のすることでしたから、身を低くする謙遜な礼拝でもありました。この礼拝は義務や強制によるものではなく自発的なものでした。私たちも主イエス様に対して、そのような礼拝を捧げるものに変えられていきたいと思います。
礼拝の動機
パリサイ人シモンは心の中で主を非難しますが、主はそれを見通した上で一つのたとえ話をお話になりました。多くの借金を赦してもらった者は、より多く感謝をし、赦してくれた金貸しをより多く愛するというシンプルなお話です。そして主は、香油を注いだ女性を見ながらシモンにこのように言われました。
「わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」(7:47)
彼女は、主を「よけい愛した」姿を通して、「罪の赦しの感謝を多く抱いている」ことを証明しました。彼女の礼拝の動機は「赦された喜び」でした。私たちの礼拝、奉仕の原動力もそこから生まれます。
しかし、罪認識が甘く、「自分は少しだけ罪を犯した」「少々、赦してもらう必要があるかもしれない」と考える者は、赦しをいただいたとしても小さな感謝しかないでしょうし、主を深く愛することもないでしょう。まして、このパリサイ人は、自分が罪人であることを全く理解していませんでした。主をお迎えする資格のない罪人であることを認めるどころか、むしろ、主ご自身を値踏みするような態度を取っていました。だから彼は主を愛する行動を取らなかったのです。
問われる罪認識
私たちはどうでしょうか。「私は売春婦などではない。真っ当に生きている」と私たちは言うかも知れません。自分は犯罪や人に後ろ指刺されるようなことはしていないし、地に足をつけて真面目に生活していると思っているかもしれません。
しかし、もし仮にそうであったとしても、そのように生きることができるのは私たち自身の功績でしょうか…。私たちをそのように支え、必要な環境や資源、守りをこれまで与えてくださった神の恵みを、私たちはどれほど意識しているでしょうか…。その恵みを無視し、感謝しないこと、自分は自分で生きていると思い上がることは大変な罪ではないでしょうか…。
主はこの女性に「あなたの罪は赦されています」と言われました。これは、「あなたの罪は赦されてしまっているのだ!」という宣言です。この宣言をすることは、神ご自身以外にはできません。もっと言えば、私たちの罪の全責任を身代わりに引き受けられた救い主イエス様だからこそ宣言することのできる内容です。
この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)
女性の弟子たちの輝き
8章の冒頭には、女性の弟子たちの名前が列挙されています。特にルカの福音書は、女性の信仰者たちに光を当てています。これは、2000年前の一般常識から考えると異例のことです。人類の歴史において、多くの社会で男尊女卑、女性蔑視が行われて来ました。現代においてもまだまだ悲惨な事例が報告されています。また、そのような考えに対抗する形で、女性解放を唱えるウーマンリブ運動が起こったり、また、ジェンダーフリーの名の下に男女の区別の一切をなくすべきだと主張する人々もいます。
しかし、男性も女性も、本来の「神のかたち」を取り戻し、それを輝かせることができるのは「主イエスのみそば」においてだということを私たちは覚えたいと思います。
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*1:マタイ26章の記事は、ヨハネ12章を見るとベタニヤのマリヤが行った行為であることが分かる。そして、その行為の目的は「埋葬(十字架)の準備」である。ルカ7章の出来事は、名の知られていない娼婦が、「赦しへの感謝」として行った行為である。