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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ9章37-62節

ルカ

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前半はマルコの並行記事の解説を参照してください。


マルコ9章14-32節 - 道奥 MICHINOKU せみなりお

 

真の救いのために心を定める主

 

さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ…(9:51)

 

「御顔をまっすぐ向けられ」とは、直訳すると「顔を固定する」という表現が用いられています。これは「心を定める」という意味で、新共同訳聖書では「決意を固める」と訳されています。主は何の決意を堅めておられたのでしょうか。それは言うまでもなく、十字架に架かられることであり、ルカはそれを指し示すように「天に上げられる日が近づいて…」と記しています。

 

しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。(9:53)

 

人々は“十字架以外の救い”を求めます。それは一時的な興奮や満足をもたらす奇跡、目先の問題の解決、自分たちの現状を肯定してくれるような優しいことばであるかも知れません。サマリヤの人々もそのような“ご利益”を求めていたかも知れません。しかし、主の心は十字架を向いています。それだけが真の救いをもたらす唯一の道だからです。私たちも心を定めたいと思います。私たちの家族、友人に本当に必要なものは何でしょうか。主イエス様の十字架による罪の赦し、神との和解こそが何よりも必要であることを覚え、祈りつつ、勇気を持ってアクションを起こしていきたいと思います。

 

弟子訓練へと心を定める主

弟子のヤコブとヨハネは、サマリヤの人々が主を受け入れない様子を見て、「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と血気盛んに語ります。

 

しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。(9:55)

 

主はサマリヤの人々を憐れみ、彼らの本当の救いを願っておられました。しかし、弟子たちの心はそうではありません。御自分を受け入れない人々のためにさえ命を惜しまず十字架に向かわれる主と、「あんな奴らは滅ぼしてしまいましょう」と語る弟子たちとの間には大きなギャップがあるのです。

 

しかし、そのようなギャップを前に、主は振り向いて弟子たちを戒められます。せっかくエルサレムに向けて顔を固定したはずなのに、主は弟子たちを訓練するために振り向かれるのです。主はご自身お一人だけが十字架に邁進すればよいということではなく、弟子たちの歪みを修整し、弟子たちを成長させ、弟子たちと思いを共有しようとなさるのです。

 

主は、彼らが主ご自身と同じ心で「人の真の救い」に向かって心を定め、犠牲を厭わずに十字架を負って歩む人となるようお導きになります。この後、一行はすぐにエルサレムに到着しません。直進するなら二〜三日の道のりでしたが、かなりの回り道をするのです。それは、主の迷いや恐れの表れではなく、弟子たちを訓練なさるための時間と考えることができるでしょう。

 

人々の真の救いを願うクリスチャンは、自分自身が変えられ続けることを求め、主イエス様と同じ心を共有することを求めます。そして、人々の真の救いを心から願う教会は、弟子訓練に心を注ぐのです。