読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ11章1-28節

f:id:mentoringservant:20141015215148j:plain

主の祈りと弟子の祈り

 

さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」(11:1)

 

主イエス様は、神の子であり、神ご自身であられるお方です。どうしてこのお方に「祈る必要」があるのか、不思議に思う人もいるでしょう。

 

しかし、地上での主イエス様は「 神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しく」(ピリピ2:6-8)しておられたのです。そして、ご自身の祈る姿をもって、私たちに「真の人は、真に神に頼る人である」というメッセージを投げかけてくださっているのです。


そのような主の姿を見るとき私たちは、自分たちが祈りにおいていかに貧しい歩みをしているかを思い知らされます。祈りを通して全能の父なる神に頼るよりも、当てにならない自分自身により頼もうとする愚かさを突きつけられます。だからこそ、あの弟子たちと同じように「主よ、私たちにも祈りを教えてください」と求めたいと思うのです。

 

そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」(11:2-4)


こちらが一般に「主の祈り」と呼ばれる祈りですが、むしろ「弟子の祈り」と呼ぶべきでしょう。そしてむしろ、上に記した主イエス様の祈りの姿を「主の祈り」と呼びたいと思うのです。

 

さて、その「弟子の祈り」ですが、これは厳密には弟子たちにのみ適用されるべき内容ですが*1、しかし、その本質は現代のクリスチャンたちにも適用できます。

 

この祈りには、神を畏れつつも「お父さん」と親しく呼びかけること、何よりも先ず御名の栄光を求めること、再臨を待ち望むこと、日々の必要を満たされる主により頼むこと、罪を赦し合う関係を求めること、誘惑からの守りを求めること…などが含まれます。これは定型の「祈祷文」というよりも祈りに含まれる内容を示しているものです。暗唱して機械的に繰り返すよりも、この内容に沿って思いを巡らしながら祈っていくのが良いでしょう。


この後、主はたとえ話を用いて大胆な祈りを教えます。必死に乞い願う者にしぶしぶ応じる友人の話を引き合いに、主は、自己中心な人間ですらそうなのだから、憐れみ深い神はどれほど私たちの祈りに耳を傾けてくださるだろうか…というメッセージを語られます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」とありますが、このみことばは、求め続け、捜し続け、たたき続けることを教えています。祈りには大胆さと継続性が必要なのです。


メシヤを拒絶する民


悪霊の追い出し、口のきけない人の癒しなどは、主が旧約聖書で預言されていたメシヤであることを示すしるしでした。しかし、群衆の中には、「悪霊どものかしらベルゼブルによって悪霊を追い出している」と非難したり、もっとアっと驚くような奇跡を見せろと言う者たちがいました。それに対して主はこう語られました。

 

「わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(11:20)

 

これはメシヤ宣言です。しかし、当時のユダヤ人たちは宗教家たちを筆頭にして、このメシヤである主イエス様を拒みました。その結果、彼ら苦難の歴史をたどって今日に至ります。これは、将来の患難時代においてユダヤ人たちが民族的回心をするまで続きます。


マリヤよりも幸いな人々

 

イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(11:27-28)

 

ルカ1章にもあるように確かにマリヤは恵まれた女性であり、幸いな人です。しかし、主は「神のことばを聞いてそれを守る人たちがは、私を産んだマリヤ以上に幸いだ」と仰ったのです。

 

ローマカトリック教会は、マリヤへの祈りを捧げ、マリヤを神と人との仲介者のように考えます。これは明確に聖書に反する教えです。主は、その人の肩書きや経歴ではなく、また、所属団体や宗派でもなく、主のみことばを聞いて守るかどうかをご覧になります。私たちはただただ身を低くして、「主よ、どうぞ私をそのような幸いへと導き続けてください」と祈り求めたいと思います。

 

「祈りは初めて」という人のための本

「祈りは初めて」という人のための本

 

  

祈ることを教えてください

祈ることを教えてください

 
真の祈り手としてください

真の祈り手としてください

 

 

*1:13節で「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と語られていますが、旧約時代に「聖霊を求める」という教えは見られません。また、ペンテコステ後の時代の聖徒には聖霊の内住があり、すでに信仰を与えられている者が「聖霊をください」と祈る必要はありません。