道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ11章29-54節

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ヨナのしるし

当時のユダヤ人たちは、主がご自身のメシヤ性を証明する奇跡をなさったのを目の当たりにしました。しかし、それを見ても真の意味で主イエス様をメシヤとして受け入れる者はなく、完全に否定するか、単に偉大な奇跡やご利益を期待するかといった人々がほとんどでした。


ユダヤ人指導者が公にイエス様を拒絶したことについての解説はコチラから。

 

さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」(11:29)


悪い時代とは「メシヤを拒絶する世代」ということです。彼らは奇跡を求め、さらなる証拠を求めますが、「ヨナのしるし」だけが与えられます。主はご自身の十字架と三日目の復活を、預言者ヨナが大魚の中で過ごした三日間と重ね合わせて語っておられます。つまり、「今後はあなたたちの望むメシヤのしるしではなく、十字架という復活という証拠だけが与えられる」ということを仰っているのです。


ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めました(30節)。南の国シェバの女王はソロモンの知恵を聞きにやって来ました(31節)*1。しかし、主イエス様に直接お会いしてみことばを聞き、メシヤとしてのしるしを数々目撃しているユダヤ人たちが、主を受け入れないのです。主は「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」(35節)という言葉で「あなたたちは何を見ているか分かっているのか?」と問いかけておられます。


外側と内側


さて、ひとりのパリサイ人が主を食事に招きます。そこで主が「きよめの洗い」をなさらないのを見て、パリサイ人は驚きました。これは衛生的な意味での手洗いではなく、儀式的なきよめをするための手洗いです。これは当時のユダヤ人にとって絶対的に守るべき習慣となっていましたが、実は、モーセの律法のどこにも書いていない「言い伝え」「慣習」でした。主は、パリサイ人たちが外面や形式を重んじながら内側が邪悪に汚れているという事実を指摘されました。


パリサイ人は「外面>内面」という生き方に陥っていましたが、聖書は常に「外面<内面」を教えます。これは決して外面、形式が重要でないという教えではありません。外に現れる行動、習慣、礼拝などの儀式、組織、奉仕、捧げもの、建物などをなおざりにしてはなりません。しかし、それらのものは信仰の本質ではないのです。

 

雄弁な祈りのことばを語り、奉仕活動をしながら、心の中は不平不満や批判でいっぱいということもあり得ます。しかし、素晴らしい会堂がなくても、稚拙な音楽しかなくとも、感謝と賛美にあふれた礼拝の心を持つことはできるのです。

 

内側をきよめることは自力では不可能です。石鹸やシャワーできよめられるものでもありません。それができるのは十字架の血潮のみです。内側の汚れた私たちのすべての罪を身に引き受け、私たちの赦しと永遠の命のために苦しまれた主イエス様を思い、この方を慕い、信頼を深めていくとき、私たちの心は変えられていきます。


主よ、あなたの尊い血潮によっていつも私たちの心の内側をきよめてください。そして、私たちの生き方が「内側から外側へ」と変られ続けていきますように。

 

キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は…私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(ヘブル9:14)

 

ヘブル語/英語の賛美「カドシュ・アタ(あなたは聖なる方)」


Kadosh Ata (Joshua Aaron) - YouTube

 

*1:2歴代誌9章参照