道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ12章1-21節

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偽善に注意!

パリサイ人をやり込めた主のもとに、おびただしい数の群衆が集まって来ました。しかし、主は群衆ではなく、弟子たちに語りかけます。主は三年半の公の生涯の後半部分を主に「弟子訓練」に費やされました。

 

「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。」(12:1)

 

パリサイ人のパン種とは何でしょう。それは「感染力をもった信仰的偽善」です。心の内側を汚したまま、外側だけを敬虔そうに繕っている生き方のことです。様々な教会の牧師や役員の子どもたちから、私は何度もこのような話を聞いたことがあります。「父は礼拝などの場では立派な祈りを捧げる。でも、家では私のために個人的に祈ってくれたことが一度もない。」このような偽善は、パン種がパン全体を膨らますように、最初は小さくても徐々に教会全体に影響を与えます*1

 

おおいかぶされているもので、現わされないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(12:2-3)


「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きをすることになります。」(ローマ14:12)とパウロが教えたように、私たちはやがて神の御前に立ちます。私たちは他者に対して隠している部分、自分でも気づいていない部分を持っているでしょうが、しかし、神はすべてをお見通しです。

 

「造られたもので、神の前でかくれおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)


恐れるな!


しかし、偽善を捨て、外側よりも内側、形式よりも信仰を本気で大切にして歩むとき、私たちは迫害を受けます。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)と書かれている通りです。

 

しかし、主は、弟子たちを「わたしの友」と親しく呼んで語りかけられます。「人は、どんなに頑張っても所詮からだを殺すこと“しか”できない。しかし、神は人を殺すことも、ゲヘナ*2に投げ込むこともできる方だ。人ではなく、神を恐れよ」とおっしゃるのです。


さらに主は、その神が小さな雀や人の髪の毛にも目を留めておられることに触れ、「神はそれ以上にあなたの存在に目を留めておられる」と告げられます。我々が恐れる事なく敬虔な歩みをしていくことができるとしたら、その支えとなるのは「主イエスが私たちを友と呼んでくださること」「神が私に目を留め、決してお忘れにならない」ということです。尊敬すべき歴代の殉教者たちを支えたのも、このような真理でした。


貪欲に警戒せよ!


主が弟子たちに教えておられると群衆の中のひとりが、遺産分与のトラブルを仲裁してくれるよう願い出ます。しかし、主は「私は調停者には任命されていない」と拒否しました。主は、父なる神から与えられている使命と関わりのないことには目をお向けになりませんでした。主に頼みごとをした人物を引き合いに、主は「貪欲」についてお教えになります。

 

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(12:15)


貪欲とは、必要以上のものを欲すること、自分に与えられているものを感謝するのではなく与えられていないものにこだわることです。主はある金持ちのたとえを通して「貪欲」の愚かさについてお教えになりました。

 

勤勉に働くことや貯蓄は有益ですが、それが私たちの究極的な支えではありません。私たちが自分で持っていると思っている財産も健康も命も、実は、すべて神の手の中にあるのです。そして、与えられているものに感謝する心を失ってはなりません。さらに、私たちは与えられているものを「ただ自分のため」に用いるのではなく、むしろ積極的に、豊かに「主のために」用いていくことが教えられています。

 

 

あなたがずっと求めていた人生―真の霊的変容へのロードマップ―

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*1:何千もの座席数の会堂を有するメガチャーチの牧師が不祥事で辞職することがしばしばある。また、カトリック教会の聖職者による性的虐待事件の賠償のために米国ではすでに3,000億円以上が支払われている。組織の規模、プログラムや儀式の仰々しさが教会の本質ではないことが分かる。

*2:ゲヘナは、別な翻訳では「地獄」されている。これはもともとエルサレムの都にある「ヒノムの谷」を指す言葉で、古くは偶像に幼子が捧げられた場所であり、当時は廃棄物処理場のようになっていた。いつも火が燃え、ウジ虫がわき、誰も近寄りたくない場所であり、それが転じて、最終的な裁きを受けた者たちとサタンが入れられる「地獄」を意味するようになった。黙示録では「火と硫黄との燃える池」と呼ばれている。伝道する際、極端に「地獄」を前面に出して人々を怖がらせるスタイルを取る人々がいるが、本当に人を悔い改めに導くためには地獄を怖がらせるよりもまず神ご自身を知らせ、神ご自身を恐れさせる必要があるだろう。また、逆の極端で、神は愛の方であるから全ての人を天国に入れてくださると考える万人救済説を取る人々もいる。彼らは決して地獄については語らない。しかし、それも明らかに聖書に反する考えであり、福音の真理を歪める教えである。