道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ13章1-21節

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因果応報?自業自得?

弟子たちを教えておられる主のもとに、人々がやってきて報告をします。それは、神殿に礼拝にいったガリラヤ人がなんらかの理由でローマ総督ピラトに虐殺されたというニュースでした。

 

当時は、「悪いことが起こるのはその人が悪いことをしたからだ」という考えが一般的でした。これは「因果応報」「たたり」などを信じる日本人にも共通する感覚です。しかし、主はその常識をくつがえされます

 

イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(13:2-3)


「そうではない」ということばは強い否定の表現です。正しい神の目から見たら、誰もが滅びるべき罪人なのです。誰もが悔い改めを必要としているのです。主は、シロアムの塔が倒れたという事故の話題も用いながら、「悔い改めなければ滅びる」というメッセージを強調されます。


私たちはとんでもない事件を起こす犯罪者のニュースを見聞きすると眉をひそめ、「なんて酷い人物なのだろう」「自分だったらそんなことはしない」と考えます。果たしてそうでしょうか。私たちも同じ罪の性質を内側に宿していないでしょうか。そのような罪を実際に犯していないのは、神の憐れみ深い守りがあったからではないでしょうか。


ぶどう園の番人といちじくの木


上のメッセージを強調するために、主はひとつのたとえ話をお語りになりました。それは実のならないいちじくの木をかばう、ぶどう園の番人の話です。これは、実を結ばない私たちに対する神の裁きと、その前に立ちはだかったイエス様の十字架を指し示すたとえです。

 

私たちはこのお方によってかばっていただき、「もう一年」「もう一年」と何度もチャンスを与えていただいている者たちです。だから本当は、私たちは誰を見下すこともできないはずです。ただただ神の寛大さに感謝しながら、その驚くべき恵みの中で実を結んでいきたいと思います


安息日のいやし

主はある安息日に、十八年も悪しき霊に苦しめられていた女性の病を癒されます。しかし、それを見た会堂管理者は、「安息日に医療行為をするのはけしからん」と文句を言います。

 

しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」(13:16-17)


主は、因果応報の常識をくつがえし、律法主義の呪縛を取り除かれます。主が自由に働かれるところには神の栄光の輝きと自由がもたらされます。私たちが良かれと思う方法や、私たちが好む慣習や伝統以上に、そこに主が働いておられるかが重要です。「主よ、どうぞご自由にお働きください」と祈り求めたいと思います。


「奥義としての神の国」のたとえ

マタイの並行記事の解説を参照してください。

 


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