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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ14章12-35節

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「人からの見返り」vs「神からのお返し」

 

「友人、兄弟を招いてはいけない」というのはユダヤ文化独特の「誇張表現」です。日本語の「ほっぺたが落ちそう」が、文字通り頬が落ちるということではなく「美味しい」という意味であるのと同じです。

 

ここでは「人からの見返りを求めない」ということが教えられています。見返りを求めない施しや、豊かな交わりに人を招待することは、その人からの見返りがなくとも、将来、必ず神ご自身からのお返しを受けることになるというのです。


素晴らしいことだと思いませんか。我々の持っているものは、そもそも神から授かったものです。神がそれを「人に分け与えよ」と言われ、我々がそれに従っても、それは本来当然なことであり、ご褒美など期待することはおこがましいはずです。それなのに主はこう約束してくださっているのです。

 

「あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」(14:14)

 


拒んではならない招き


主は、ある宴会のたとえを用いて、神の国についてお教えになります。これは、この宴会の主催者は神ご自身を指しています。神は私たち人間をご自身の救い、永遠の命、親しい交わりの宴の中へと招いてくださいます。しかし、多くの人々がいろいろな理由を持ち出してその招きを拒むのです。ある人は、神との関係よりも財産(畑)が大事だと考えます。他の人は、仕事(牛を試す)が大事だと言い、さらに別な人は、人間関係(結婚)が大事だと言って招きを拒むのです。


財産も仕事も人間関係も、私たちの人生において重要な事柄であることは間違いありません。しかし、神の差し出してくださっている永遠の救いほどに大切かと言うならば、それは絶対に違います。これらのものは永遠に続くものではないからです。この宴会の主人は、当時、客として招かれることはまずなかった貧しい人、身体に障害を持つ人々を招き、さらに道行く人を無理矢理にでも招待しました。

 

最初に招待されていた者たちは、ユダヤ人の指導者たちを表しているのかもしれない。彼らが福音を拒んだとき、神は福音をエルサレムの《町》の一般市民に与えられた。彼らの多くはその招きに応えたが、それでも主人の家にはまだ《席》があった。そこで主人はしもべに《街道》やわき道のところに《出かけていって》、「無理矢理にでも人を連れて来なさい」と言いつけた。これは福音が異邦人に伝えられることを表しているのだろう。(ウィリアム・マクドナルド)


弟子として歩むための代償 < 歩まない代償 < すでに払われた代償

 

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(14:26)


これも「誇張表現」です。これを読んで「よし、親を憎もう!」「私が妻を憎いと思うのは正しいことなのだ!」などと思わないようにくれぐれもご注意を(笑)。主の弟子は、他の誰よりも主を愛し、他の誰よりもこのお方に従おうと思うので、“それに比べたら” 他の存在は「憎い」と表現できるほど…という意味です。


ですから、主の弟子として歩む者たちはむしろ、主が「両親を敬いなさい」「妻を愛しなさい」「夫に従いなさい」「兄弟は互いに愛しなさい」と命じられることを重く受け止めて、「自分の十字架を負って」(自分の都合や心地よさをかえり見ず)それらの命令に従う者へと変えられていきます。


主は、塔の建設や戦争のたとえを用いて、弟子になるには「弟子として歩むための代償」を考えるべきだとお教えになります。「自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。」(33)とまで語られるのを聞いて、みなさんはどう思われるでしょうか。これも、文字通り「財産をゴミ箱に捨てる」という意味ではなく、お金も、所有物も、仕事も、家庭生活も、休息や楽しみも、口や身体も、主であり師であるお方を喜ばせるために使う覚悟はあるか、ということが問われています。


私自身、これほどの覚悟があるだろうか…と考えさせられます。しかし、よく考えると、せっかく救われたのに、弟子として“歩まない”ことの代償はもっと大きいと思うのです。パウロは「神の恵みをむだに受けないようにしてください。」と語りました。せっかくの救い、せっかくの恵みを無駄にするような生き方をすることは、すなわち、自分の人生を無駄にすることではないでしょうか。

 

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)

 

私たちが払うべき犠牲の大きさ以上に、主がすでに払ってくださった代償の大きさを思いましょう。その恵みのあり得なさ、凄まじさを味わい、自分のこととして受け止めるようになるなら、私たちは弟子の道の奥へと歩みを進めずにはいられなくなるはずです。そのような弟子たちは「塩気」(周囲への影響力、浸透力)をもった証し人として用いられていくことでしょう。

 

《必見!》 ベツレヘム・バプテスト教会牧師、Desiring God主宰、ジョン・パイパー師のショートメッセージです。

 


あなたの人生を無駄にしないでください Don't waste your life (Japanese ...


私たちのやること全てが、神様に栄光をもたらすのですか?(字幕付き) - YouTube