道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ16章1-18節

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抜けめのない光の子になろう


主はパリサイ人たちに三つのたとえを語られた後、今後は弟子たちに向かって一つのたとえをお話しになります。それは「不正の富を用いる管理人」のたとえです。これはなかなか理解するのが難しいたとえだと言われていますが、中心的な内容はシンプルです。理解する鍵は以下の節にあります。

 

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。(16:8)

 

このたとえに出てくる管理人は、不適正な会計管理をし、さらに主人に損失を与えながら自己保身を計りました。その悪事は決して褒められたものではありません。しかし、その「抜けめのなさ」は称讃に値するし、光の子たちに勝っているというのです。光の子とは、言うまでもなくクリスチャンたちのことです。


振り込め詐欺の手口は非常に巧妙で抜けめのないものです。また、この日本社会にある様々な利権構造は抜けめのない仕組みになっています。ビジネスで成功する人々は抜けめのない経営戦略を持ち、競合他社との差別化を計っています。これらのものは合法・非合法に関わらず、究極的には「地上的な富」を目指したものです。

 

地上的な富を目指す人々が抜けめなく事を行っているのだから、光の子らは「永遠の富」のためにさらに抜けめなく事を行う必要があるのだということを、主は弟子たちに仰っているのです。


これは私たちに大きなチャレンジを与えるみことばです。現代において、多くの教会が自らの存在目的を見失い、「抜けめ」だらけ状態に陥っています。教会の停滞や衰退を「仕方のないこと」と考えている節もあります。将来へのビジョンも、伝道や弟子訓練のための計画や方策もなく、ただ前例に倣って何の工夫もなく同じ事を繰り返しているだけ…という教会も残念ながら少なくないのです。

 

この世の「方法」を教会に取り入れることには警戒が必要ですし、目新しければ良いというものではありませんが、教会の「真剣さ」「情熱」がこの世のものに劣るようであってはならないはずです。これは自戒を込めて言っているのですが、「神のために」という看板を掲げながら平気で二級品や余り物、何の工夫も努力も加えられていないものを差し出してはならないと思うのです。


企業が懸命に新商品の開発をするような熱心さをもって、新しい賛美を生み出そうとしているだろうか…。◯進ハイス◯ールの講師たちが受験生たちのを指導するような熱心さをもって、次世代のクリスチャンたちを導いているだろうか…。投資家たちが株価の微妙な動きに注目するように、日々、みことばの詳細に注目しているだろうか…などなど、自分自身に当てはめて考えてみたいと思います。

 

主が私たちにご用意くださっている「永遠の富」「永遠のすまい」には、私たちが本気になるだけの価値があるのです!

 

しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(16:13)


主は、私たちに「地上の富のために生きるか、それとも、神のために生きるか」と二者択一を迫られます。これは、神のために生きるなら地上の富を“得てはならない”という意味ではありません。勤勉に働くことや、誠実に賢いビジネスを行うことなどによって富を得ることを聖書は私たちに勧めています。しかし、それらの営み“そのものを目的にする”のではなく、“真に神のためにそれをする”ようにと教えられているのです。

 

聖書を都合よく解釈する人々

 

しかし、近くで聞いていたパリサイ人たちは主のことばをあざけります。彼らは、神のために富を用いる人々ではなく、富のために神を用いる人々でした。彼らは礼拝を捧げ、祈りを捧げ、人々の前で「自分は正しい信仰者だ」という風に振るまっていましたが、しかし、心は神ご自身から遠く離れていたのです。

 

この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。(イザヤ29:13)


当時のユダヤ人指導者たちは「行いによる救い」を教えていました。しかし、メシヤの道備えをしたバプテスマのヨハネは「悔い改めによる救い」を教えました。つまり、「自分の罪を認めて、メシヤを受け入れよ」という教えです。それを聞いて多くの人々がヨハネのもとに押し寄せました。

 

しかし、それでもユダヤ人指導者たちは相変わらず、「行いによる救い」を教えます。それは、彼らが作り出した口伝律法、慣習を守るという「行い」による救いです。しかし、主はこう言われます。

 

「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。」(16:17-18)


主はここで何を仰っているので称ら。それは「あなたがたが行いによって救われるというなら、自分たちの言い伝えを行うのではなく、モーセに与えられた律法を完璧に行って見なさい(できるものなら!)」ということです。律法を正しく理解した人は「私は罪人である。行いによる救いはない。」と認めるよう導かれます

 

しかし、当時の指導者たちは、律法に様々な解釈や規定を付け加える事で、律法の本質にある厳格さを薄め、基準を下げていました。そして、ほどほどの行いをし、「ほどほどに“宗教的”な生き方をすれば神の国に入れる“はず”だ」と自分たちを安心させていたのです。


主は、彼らが行っていた代表的な“解釈”を引き合いに出しました。それは「夫が離縁状を出しさえすれば好きに離縁して良い」という解釈です。本来、離縁状の規定は、当時非常に弱かった女性の権利を保護するために与えられた律法でした*1。ところが、料理がまずいから離縁、裁縫が下手だから離縁をし、他の女性と再婚するといったことが平気で行われていたのです。


私たちも自分たちの「物差し」が人の言い伝えや慣習によるものなのか、それとも一点一画も廃れない聖書の真理によるものなのかを吟味する必要があります。聖書を都合良く解釈するのでなく、聖書が教えていることそのものを理解し、信頼し、それに生きる私たちへと変えられていきたいと願います。

 

*1:「人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ…」(申命記24:1)とあるが、この「恥ずべき事」とは本来、「不貞」のみを意味していた。これは、仮に不貞といった重大な罪があったとしても、即座に家から放り出すのではなく、正当な手続きをして離縁を行うようにという規定であった。ところが、特に律法を拡大解釈するヒレル派のパリサイ人たちは「恥ずべき事=気に入らない事」と理解し、上に記したように家事の上手い下手や、夫を怒らせたといった理由で“簡単に”離縁できるように教えていたのである。