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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ18章1-17節

ルカ

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あきらめない祈り

主は「いつも祈るべき」であり「失望してはならない」ということを教えるために、一つのたとえを話されました。

 

登場人物は「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」と「粘り強く助けを求めるやもめ」です。どんなに非情な裁判官であっても、あまりにしつこく求められたなら、しぶしぶ相談に乗り、助けをしてくれるというのが、このたとえのストーリーです。主は結論としてこう語られます。

 

まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」(18:7-8)


これは、神が非情な裁判官のようなお方であるということではありません。「神とは “真逆” の性質をもった裁判官で “さえ” こうなのだから、神はあなたがたの祈りを無視するはずがない!」という強いメッセージです。

 

祈りに対する神の答えは、私たちの願い通りではないかも知れません。しかし、主は、私たちが祈るとき、その願いや祈りを “越えて” 最善をなしてくださいます。また、祈り続ける中で、私たちの祈りがより神の御心に沿うものへと変えられていくこともあります。

 

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14)

 

へりくだる祈り

主は次に「自分を義人だと見なし、他者を見下している者たち」に向けてたとえを話されます。登場人物は、口伝律法を厳格に守っている「パリサイ人」と、ユダヤ人でありながらローマの手先になっている「取税人」です。当時の感覚でいうと「立派な人の代表」と「罪人の代表」ということになります。


しかし、神が義とお認めになったのは、自分を誇って他者を見下す “立派な人” ではなく、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈った “罪人” でした。私たちはどうでしょうか。

 

このたとえを読んだ私たちは、「主よ、私が、このような高慢なパリサイ人のようではないこと、感謝します」と高慢な思いを抱くかも知れません。「だれでも神の前で自分を高くする者は低くされ、神の前で自分を低くする者は高くされる」という主のみ教えをいつも心に刻みたいと思います。

 

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。… 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:1-3, 17)