読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

18章18-43節

f:id:mentoringservant:20141028094641j:plain

子どものような信仰

福音書記者は、主が「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と語られたことを記した後、「ある金持ちの役人」と主イエス様とのやりとりについて語ります。この「文脈」を意識しながら読みたいと思います。

 

彼は「子どものようでない人」の代表として描かれているといっても良いでしょう。彼が主に対して投げかけた質問はこうです。

 

「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(18:18)


これに対して主はまず、こうお答えになります。

 

「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」(18:19)


このやりとりを読んで、ある人々は「イエスは自分が神でないことを認めているではないか」と言います。それは全くの読み違いで、主のことばの真意を反対にとらえているのです。むしろ、主はここで「あなたは私を『尊い』と言うが、私が『尊い神』そのものであることを分かって言っているのかい?」と言っておられます。そして、彼が「あなたこそメシヤ、神ご自身です」と告白するよう促しておられるのです。


しかし、彼にはその気配がありません。なぜでしょうか。彼は「自分自身が “何かをする” ことで神の国に入れる」という考えを持っていたようです。彼は、姦淫・殺人・盗み・嘘の禁止、父母への尊敬などを教える十戒をはじめとするモーセ律法を、幼い頃からしっかりと守っていました。しかも、彼は裕福です。それは当時のユダヤ人たちの常識では「神から特別に祝福された人」であることを意味していました。それは24-26節のやりとりでも分かります*1。ですから、彼は、自分が神の国にふさわしい、神の国に近い存在だと自負していました。


彼には「子どものような信仰」がありませんでした。「子どものような信仰」とは幼稚な信仰という意味ではなく、自分の無力を認めて神に信頼するという姿勢です。「何でも自分でやります。私はできます。世話にはなりません。」という姿勢は子どもらしくないのです。主はこの金持ちの役人に、決定的なチャレンジをお与えになります。これは「あなたは本当に何でも自分でできるのか?」という問いかけです。

 

「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」(18:22)

 

全財産を売り払って貧しい人に施せというのは、全ての状況にある全ての人々に共通する命令ではありません。まして、救いの条件でもありません。むしろ重要なのは「わたしについて来なさい」というメッセージです。

 

彼が「ああ、イエス様、私は高慢でした。私自身に私を救うことはできません。神の国にふさわしい自分になることなど到底できません。でも、どうぞ、そんな私を憐れんでください。あなたこそメシヤ、どうぞあなたについて行かせてください」と告白できたとしたら、どれほど幸いだったでしょうか。しかし、彼は悲しい顔をして去っていったのです。

 

献身の報い


ペテロはここで「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」と、見当外れな自己アピールをします。「私はあの金持ちの役人とは違います!私こそは本物の弟子です!」と言いたかったのでしょうか。

 

主はここで「馬鹿じゃないか?」と言い返しても良かったのですが、弟子たちが将来において理解し、味わうことになる真理をお告げになります。

 

「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(18:29-30)


神の国のために払う犠牲には必ず報いがあるということです。ただし、ここでの「捨てる」ということばは、文字通りゴミ箱に捨てるとか、置き去りにするということではありません。自分の所有物であるという考えを「捨てる」ということです。


弟子たちがこのみことばの本当の意味を理解し味わうようになるのは、31-33節で言われている「十字架と復活」の出来事を経てからのことです。

 

*1:この箇所を誤解して「裕福な人ほど救われにくい」と考える人がいる。確かにある人には富が誘惑や信仰の妨げになる。しかし、ここでの真意は「一般に救いに近いと考えられている裕福な人で“さえ”救われにくいのだ」ということであり、「そのような人で“さえ”救われにくいなら、誰も救われないのではないか?」「そうだ。自力では誰も救われ得ないが、しかし、神には人を救うことがおできになるのだ!」という内容である。